設立趣意書

貴農同志会について

酪農学園の前身は北海道酪農義塾で、昭和8年10月、札幌郡札幌村大字苗穂の北海道製酪販売組合連合会(酪連)の構内の一隅に誕生しました。
その頃の北海道農業は化学肥料の多用による収奪経営で農地は荒れ果て、棄てられて行きました。この荒れた農地を酪農によって蘇生させようと、悲願したのは酪連の首脳の方々でした。
その先頭に立ったのは、偉人黒澤酉蔵先生であります。先生は農民を愛し、耕馬の外に乳牛、中小家畜、家禽を導入することをすすめました。こうすることによって土地は肥え生産力は向上して体は健康となり農業収入は安定して農村は豊かになると提唱しました。

酪農義塾はそれまでの収奪的化学肥料万能主義を堆厩肥を主体とする正常な有機農法経営を行うように指導する民間唯一の教育機関でありました。
酪農義塾は創立以来多くの農村青年に酪農経営の学理と実学を教授してきましたが、昭和17年その農業部門を財団法人興農義塾野幌機農学校として、現在の野幌の地に生まれ変わりました。機農学校は、戦後学制改革により野幌機農高等学校となり、その後酪農学園大学付属高等学校を経て、とわの森三愛高等学校の酪農経営科として存続しております。

現在の酪農学園は、機農学校が野幌にあったお蔭で酪農学園大学、北海道文理科短期大学(旧酪農学園短期大学)、とわの森三愛高等学校(旧酪農学園女子高等学校、三愛女子高等学校)と発展して参りました。道央の特等地に緑したたる畑地のひろがり、また道内各地に散在する農場用地、植林地は、その大部分が酪連からの寄附によったものであります。
以上の歴史的経過をみるとき、酪農学園の主要財産は酪農民の団体である酪連が酪農家の輿望をになって酪農義塾に寄付され、酪農学園へと継承されたものであります。

今、酪農学園の義塾時代から機農学校、事業部、高等酪農学校、酪農学園短期大学、酪農学園自動車学校、三愛女子高等学校、酪農学園大学、大学院と設置順に学園の発展を眺めてみますとき、そこに勤務された人々は専心献身して努め、時至って学園を去って行かれました。それらの先輩諸氏は、本学園にとって酪農学園発展の礎石となられた大切な方々であります。ここに、有志の者が相計り、退職者諸賢と新なる交誼の輪をひろげ絆を結び酪農学園発展のために相協力して支援する組織を設けたいと考えます。
つきましては、来る平成5年10月は、酪農学園創立60周年のめでたい年に当たります。この日を職員OB会創立の日と致したく、酪農学園職員OB会(仮称)設立を提唱して、各位の御賛同を希望する次第であります。

平成5年1月20日  酪農学園職員OB会発起人 一同

『貴農』の由来

貴農同志会について

『貴農』の熟語が言語史上に現れたのは、西暦一世紀後漢の光武帝の治世であった。
光武帝は秦の始皇帝以来禁止されていた儒学の禁を解き、儒学を尊重し大いに奨励したので孔子の学説は舊を超える復活を見るに至った。

時に儒者のひとりに桓譚なる者あり「新論」を著はして世に問う。その篇中に『貴農』なる篇名ありて珠玉の光りを放つ熟語であったにも拘らず、それを最後に、以来二千年間支那言語上に現れることのなかった不思議な運命の熟語である。
桓譚の創造した『貴農』なる新語は二千年間再び顧りみられることなく、彼の著書「新論」の中に閉じ込められていたが、ついに知己を得て陽の目をみる運命に出逢った。

発掘者は酪農学園名誉理事長佐藤貢先生である。桓譚の故国で見捨てられ、隣国日本でも採り上げられなかった新語『貴農』の熟語が、二千年後に農を尊重する一人の日本人、佐藤貢先生の慧眼に触れて蘇ったのである。
事の起こりは、私共酪農学園退職者が退職者OB会設を思いたち、その会名を発起人から募り、更に佐藤貢先生にもお願いしたところ快くご承引下され、標題の『貴農』同志会の名と書を寄せられたのである。
茲に『貴農』同志会なる佳名を下された佐藤貢先生に対して、深甚なる敬意と感謝を捧げる次第である。

文責 福原 虎雄(故人)