水野直治先生 エッセー集 {2024年} 1~10 

Date:2026.02.09

1. 村の鍛冶屋
 昭和20年5月上旬に札幌から北空知の音江村に移った.現在の深川市である.第二次世界大戦の末期である.この年は春先に晴れた日の記憶がない.住んでいた家の近くには幅2~3メートルの小川があり,その小川の近くに村の鍛冶屋があった.村の人たちの使う鍬や鎌,その他もろもろの道具はこの鍛冶屋で作られていた.
 鍛冶屋では十代後半の息子がいて,親子で焼けた鉄を打つ音が絶えずしていた.トンテンカン,トンテンカンと昔の小学校唱歌の“村の鍛冶屋”そのものであった.父親がフイゴの前に立ち,木炭の火をフイゴで強め,真っ赤になった鉄を二人で打つのである.親父が小さなハンマーでたたき,そのあと息子が大きなハンマーで叩くのである.このようにして鍬,鎌あるいは包丁も作っていた.時には馬の作業に使う道具である馬鍬や場合によってはプラウの修理もしていた.なぜそんなに鉄をたたくのか子供の時に聞いたことがある.刃物などもその方が切れる刃物になるとのことであった.今になって思うことはもっと大きくなってから鍛冶屋の知識を聞いておけばよかった.
 鍛冶屋の息子はやがて家具作りの弟子になり,家具作りになって帰ってきた.戦後まもなく鍛冶屋の仕事がどんどん減っていったのだろう.大正元年(1912)に長く全国の小学校で愛唱されてきた「村の鍛冶屋」は昭和52年に消えはじめ,昭和60年にはすべての教科書から消えたという.村から鍛冶屋が消えるのと歌が唄われなくなったのと並行したらしい.
 昭和20年は敗戦の年であったが,北海道は未曽有の冷害でもあった.収穫のあったイネの品種は農林20号であったが,この品種はいもち病に弱く,冷害とイネいもち病のダブルパンチであった.しかしこの品種は美味しいコメで,長い間多くの人に愛されてきた.
 子供の時の記憶として,この年の6月には学生の援農があった.多くの農家の男手は戦争にとられ,女手だけで農業がおこなわれていた.そこでたぶん旧制中学の生徒だったのかもしれないが,水田の除草器押しに来ていたことが記憶に残っている.この年は戦争に負けただけではなく,厳しい食料難になった年でもある.冷害は北海道だけではなかったのかもしれない

2. 小鮒釣りし彼の川
 小学校5,6年生の頃の唯一の楽しみはフナ釣りであった.当時,音江村であった深川市音江には現在の「音江道の駅」から1kmほど石狩川の上流に取水口があり,幅5m,深さ3mもの多量の水を運ぶ灌漑溝がある.ここで魚釣りをするのであった.釣れるのはほとんどがフナであった.ある時などは1時間ほどで50匹も釣れ,入れ物がいっぱいになり,家に帰って魚をあけてからまた釣りに戻る有様であった.
 8月中旬になり灌漑溝の水が止められると,灌漑溝の底にたまっている30~50cmほどの水たまりの中をフナの大群が泳ぎまわっていた.ある時はその大群に網をかけて待っていると,大きな30cmもあるヘラブナがおり掬ったこともあった.
 いつ頃だろうか,灌漑溝からフナがいなくなったのは.秋,灌漑溝の水がなくなってもフナの姿が見られなくなった.除草剤も含めた農薬が稲作に使われるようになってからだ.この子供時代のフナ釣りはその後全く経験していない.その後,深川では2mほどの小さな灌漑溝でナマズの大群を目にしたことがある.ナマズは濁った水を好む魚である.
 そういえば石狩川の取水口のあったすぐ上流にはサケの捕獲堰堤もあった.ここの近にはサケの孵化場もあって,そのためにサケを捕獲していたのだ.しかしこの捕獲場も昭和25~26年のころには廃止されてしまった.石狩川の水質汚染でサケが遡上しなくなったためである.
 終戦直後,石狩川にかかる10mもの高さの鉄橋から,旧制中学の生徒が石狩川に飛び込んで泳いでいたあのきれいな水はすでになかった.戦後,急激に発達した旭川の製紙工場で流す汚染物質は魚の住めない水にしていったのだ.石狩川から取水して田んぼに入れた水にはどろどろとしたパルプの廃液が水田の水口に堆積し,当時裸足素手で田の草取りをしているとかぶれて手足が腫れあがったこともあった.昭和30年のころである.

3.デンプン工場
 昭和22年または23年のころだったと思う.川幅2~3メートルほどの小川の河原にデンプン工場ができた.動力源は水車である.しかし水車を動かす水はこの川の水ではなく,少し離れたところの川の水を樋で運ばれてきた水であった.したがって水は上から落として水車を回すので,川の流れで水車を回すより力が強いように思われた.
 新しい水車であったことから,当時はまだ水車を作る大工がいたのだろう.戦後2,3年のころである.雪がチラつくころ操業を始めた.ジャガイモを洗い,それをすりつぶしデンプンをとる.これらはみな水車の動力でやるのだ.モーターを使うわけではない.出てくるのはデンプンとデンプン滓である.デンプン滓は豚のエサに引き取られていた.今なら豚も食べないかもしれない.
 よく子供たちは学校の帰りにデンプン工場に寄った.2番デンプンと言って,少しグレー色になっているデンプンで,真っ白なデンプンとは異なり,売り物にならないデンプンが出てくるのである.この水分を含んで固まった2番デンプンを工場のおじさんがルンペンストーブの上で焼いてくれるのである.当時はお菓子もなかったためか美味しくて子供たちはそれを目当てに工場に行くのだった.
 ルンペンストーブとは直径30cmくらいで,高さは40cmくらいの円筒状のストーブである.燃料は石炭でなく,コークスであるから煙は出ない.暖かく火力の強いストーブであった.なぜルンペンストーブと言ったかよくわからないが,一度くべると一晩くらいほっておいても朝まで火が持ち,無精者にはうってつけのストーブであった.何分,デンプン作りは秋から冬にかけての寒い時期の仕事で,さらに多量の水を使う仕事であるから暖房は大切であった.このようなデンプン工場は地方で見ることはなくなった.その後は合理化工場でデンプン回収率の高い工場になったと聞く.

4.電気牧柵
 牧場にいるとき,電気牧柵の二ユースが入ってきた.石狩川の中州の放牧地に電気牧柵がつけられたのは昭和30年(1955)ではなかったろうか.中州で回りが電気のないところなので,バッテリーが電源だったろうか.記憶が抜けている.電気牧柵に強く反応したのは馬だった.馬は蹄鉄をつけているので電気がよく流れ,相当痛かったのかもしれない.そのため,道端などに針金などが落ちていると,横っ飛びに走り出すので,手綱を強く握って走りを抑えなくてはならなくなった.
 馬に比べ,牛の方はそれほど敏感ではなかった.牛の仲間の中に,天北の豊富町の近くの放牧地に一夏放牧していた若牛がいた.一夏だけでずいぶんたくましくなって帰ってきたが,これが電気牧柵破りの常習犯だった.子分?の仲間を連れて柵を破るのである.この牛の中に中年のおとなしい優秀な牛がいた.搾乳量も多い牛で,これは仲間が脱走し,柵を壊しても柵の外には出なかった.同じ牛でも行動にずいぶん違いがあるものだ.
 いま,電気牧柵は家畜の放牧場の使用よりも,農作物をシカから守るための設置がいたるところで見られる.また,一部の地方ではクマよけのために使われている.シカといい,熊といいどこかで政策を間違えたのだろうか.

5.野犬とオオカミ
 野犬がはびこったときがある.5,6匹が集団で家畜を襲う.真っ先にやられるのがヒツジであった.ヒツジはほとんどひと咬みされると死んでしまう.この時,近所のヒツジを含めて5 ~ 6匹野犬にやられた.ヒツジがいなくなると,牛に狙いを定めるようになった.牛は野犬に襲われると円陣を組むのである.このような時,野生の時の本能が出るものらしい.
 それにしてもいつ牛に被害が出るかわからない危険な状態であった.やむを得ず野犬を退治することになった.当時,野犬がはびこって家畜に被害がでていたためか,野犬退治のための毒薬に硝酸ストリキニーネを獣医が管理していた.そこで獣医のところに行き,硝酸ストリキニーネをもらい,肉屋から肉を外した骨をもらい,毒を塗って2,3か所に置いたところ,目の前で食べ,途端に苦しみだして水に飛び込み絶命した.このようにして2,3匹退治したところで,野犬はいなくなった.
 明治の初期に,エゾオオカミのエサだったシカなどのエサを人による乱獲や雪のために激減し,そのためエゾオオカミが家畜を襲うようになり,オオカミ退治が始まったといわれる.これに使われたのも硝酸ストリキニーネだったという.シカの減ったのは大雪の時があり,その時多数のシカが餓死したことも歴史に残っているので,人間のシカ乱獲だけではなかったろう.それにしてもエゾオオカミによる家畜の被害は深刻だった.
 明治の初めにアメリ合衆国の獣医師で,お雇い外国人として開拓使に雇われ北海道に来たエドウイン・ダンはやがて新冠牧場の経営にも関わる.そこで問題となってきたのはエゾオオカミであった.家畜の被害が多発したためである.オオカミの駆除には国内外から買い集めた硝酸ストリキニーネであった.当時の日本の工業レベルでは硝酸ストリキニーネの生産は無理であったろから輸入品であろうが,アメリカではすでにこの時期にオオカミの撲滅に硝酸ストリキニーネが使われていたことがシートン動物記にも出てくる.たった2頭のオオカミで一晩に250頭ものヒツジが殺されることもあったようだ.野犬でさえ1晩で10~20頭のヒツジを殺すのは可能だ.オオカミの被害の大きさは想像できる.
やがてエゾオオカミは1896年(明治29年)以降みられなくなったという.そのころオオカミ一頭につき10円の高額な賞金がかけられていた.コメ1俵(60kg)が5円72銭の時である.現代ではシカの被害が大きな問題となっている.

6.虫が知らせるとは何だろう
 まだ二十歳前の若い時,いま思い出しても不思議な体験をしている.牧場の夕方の搾乳時間は6時からだった.ところがある日,牧場の牛になにか事故があるような気分に襲われた.どうしてもその不安が拭えず,主人に話して1時間早く搾乳に出かけた.いつもは石狩川の中州に放牧しているのだが,その日ばかりは放牧地が変わって別の草地に係留していた.現場に行ってみると牛が見えないのである.よく見ると牛の足が上を向いているではないか.係留していたところに窪地があって,牛が網巻きをして窪地に落ち込み,頭が腹の下になっていたのだ.慌てて牛の頭を腹の下から引き出し,一安心していると牛のお腹がどんどん膨らんでいくのだ.ガスだ.頭が腹の下になっていて,反芻(いったん食べた草を口にもどしてかみ砕く)ができなかったために胃の中でガスが発生したのだ.慌てて石狩川から水を汲んで牛にかけたが,腹はどんどん膨れていった.
 もうそのままでは助からないと判断し,家に走った.主人に話し,ガス管(套管(とうかん)針(しん))を持って二人で牛の元に走った.牛のガス抜きは初めてだった.針は牛の第一胃に刺し,ゆっくりとガスを抜くことをこの時初めて知った.そのあと傷口にヨードチンキを塗って緊急手当ては完了した.
 おそらくいつもの時間に搾乳に行っていたら牛は助からなかっただろう.当時もらっていた給料の50倍もの牛を死なせてしまうところだった.それにしてもあの「虫の知らせ」はなんだったのだろう.いま思い出しても不思議である.ありがたいことに5年間の牧場生活の間,事故もなく過ごせたことを感謝している.搾乳が手搾りの時代である.危険と隣り合わせの時代であった.

7.洞爺丸台風 1
1954年9月25日の夜8時ころである.夕食を食べながらラジオを聴いていると台風15号が日本海沖を時速100kmの速さで北上していると報じた.「ずいぶん早いね」と話していた.やがて眠りについた夜の11時ころである.ドーンという大きな音と,「早く起きてきて」との声に起こされた.大急ぎで服を着て,牛舎の二階の干し草置き場に上がってみると,南から風が吹いてくる反対側のキング式屋根が梁と一緒に空中に浮かんでいるではないか.とりあえず梁を針金で柱に縛り付け,風上の南側の窓を干し草で押し付けようと試みたが無駄骨だった.そのうち針金で縛った梁から屋根の垂木がはずれ,屋根はまるで風になびかせた布のように踊り出した.
 そのうち住宅兼の牛舎は徐々に傾きだした.風による住宅の倒壊は一気につぶれると思っていたがそうではなく,徐々に傾いていくことが分かった.12時が過ぎ,26日になっていただろうか,もう家の中は危ないとのことで,空のコンクリート製のサイロに逃げ込んだ.しかし潰れかかった牛舎には優秀な牛の子牛が一頭残っていた.そこで主人と二人でようやくつぶれた牛舎から引き出し,助けた.外は屋根のトタンでも木の枝でもなんでも飛んできた.現代のようにヘルメットでもなんでもある時代ではなく,極めて危険な状態であった.
 翌朝になってみると,家はつぶれ,周りには50m先にあったナシの木が根こそぎ飛んできて,散々な状態であった.15号台風は雨が降らず風台風であった.周りを見ると何軒もつぶれた家がみられた.つぶれた家は,古い家と新しい家であって,中間の家は大丈夫であった.理由は,古い家は耐久性がなくなった家であり,新しい家は釘が新しいために抜けやすく,そのためにつぶれたことが分かった.家を建てるとき,大工が釘を口に含み,唾を付けて打ち込んでいるのを見るが,釘を早く錆びさせるのはこのような時,抜けにくくする効果のあることを初めて知った.

8.洞爺丸台風 Ⅱ
 洞爺丸台風では先の洞爺丸台風Ⅰで述べた以外にも残念なことがあった.憧れの人だった北海道議会議員であり八雲町三澤牧場の主人でもあった三澤正男さんが洞爺丸で亡くなったことである.三沢さんは昭和29年の春にわたくしの働いていた深川に講演のために来られた.わたくしは主人の許可をもらい講演を聞きに行った.当時,わたくしは酪農へのあこがれを持っていた.そのころ酪農界では八雲の酪農業協同組合長の太田さんと三澤さんが酪農の進路方向について大論争が行われていた.今になってはその時の論争の本質がなんであったか全く記憶にない.三澤さんはその講演で奥さんはドイツ人であることを話していた.ドイツからの飛行機の中で,あまりにも飛行機が揺れるので,奥さんが怖がって悲鳴を上げたことを面白くおかしく話された.洞爺丸台風の後,三澤さんが亡くなったことをニュースで知った.その後4年ほどたち,酪農短大の学生の時,三沢さんのお嬢さんが学園に来られた.夏休みだったと記憶しているが金髪の美しい方だった.
 今から100年前の大正12年にデンマークから真駒内と琴似に,ドイツからは清水と帯広に小農の酪農経営指導のため,酪農家を招いて指導をした時期がある.真駒内ではモーテン・ラーセンさん,琴似にはエミール・フェンガーさん,清水にはフリードリッヒ・コッホさん,帯広ではウイルヘルム・グラボーさんだという.三澤さんはコッホさんと交流があり,コッホさんの次女のヘアタさんと親しくなり,昭和5年に札幌の北光教会で結婚されたという.わたくしの頭には三澤さんの講演後長い間「ヘッタ」という名前がこびりついていた.奥さんの実家の名前かそれとも奥さんの名前かわからなかった.多分講演では「ヘアタ」と言われたのかもしれないが.わたくしには「ヘッタ」と聞こえた.奥さんの名前だったのである.そのことが頭に残っていた.

9. 仔馬のはなし
 中学校を卒業した翌年から二十歳まで水田酪農家の牧夫として働いた時期がある.牧場の朝は4時か4時半と早く,夕方は8時ころまでの厳しい仕事が続く.当時はまだミキサーもない時期で,搾乳牛 6, 7頭はみな手絞りだった.この牧場には牛舎の端に馬屋があり,そこには親子の馬が一緒に飼われていた.ただその前を油断して通るとよく仔馬に噛みつかれた.この馬のことを聞いてみると,本当の親子ではなく,親馬は継母であるとのことであった.そのため仔馬もよく親馬に噛まれることがあったらしい.
 それからほぼ半年がたった3月のある日の夕方,仔馬が突然苦しみだした.原因はわからないまま,牛舎の中央に連れ出して一晩寝ないで看病?することになった.横になった仔馬の腹をなでるだけであったが.そうしたところ朝方に糞と一緒に多数の回虫が出てきた.それで仔馬の苦しみは嘘のように収まった.
 ところでその後に仔馬はどうなったか.びっくりするほど性格が変わった.人に噛みつくことは全くなくなった.それまで馬などの家畜が人の情で性格が変わるなど全く考えたことがなかった.痩せこけて毛並みのよくなかったこの仔馬は艶のあるアオ(黒毛)に変わっていった.馬は2歳の秋には仕事を教えなくてはならなかった.子供の時から馬の調教を見てきた自分にとっては大変な仕事と思っていた.2か月も3か月もかけて仕事を教えていくのを見ていたからである.しかし11月になって実際に仕事を教えると,驚くほど素直に仕事を覚えていって,1週間ほどで必要なことは覚えてしまった.その後2年ほどこの馬と一緒に耕起や代掻き,除草などの農作業をすることになった.馬にも心があるのをこの馬に教えられた気がする.素晴らしい経験であった.

10.菜の花と除虫菊
 戦後10年間ほど5月になると畑地帯は黄色い花で埋め尽くされた.それが当たり前の田舎の風景であった.菜の花はナタネ油の原料である.そのころ農協には併設されている精米工場と油を搾る工場があって,農家では食用油が必要になるとナタネを持って行って食料油を得ていた.ナタネを栽培していたもう一つの理由は,ナタネの収穫は7月であり,お盆前の現金収入になったこともあるようだ.また,ナタネを落とした後のナタネのカラはわずかに油を含み,そのころどこの農家も飼っていた馬小屋の敷わらにしていた.これを敷きわらにすると馬の毛艶がよくなるのだった.
 ナタネの刈り取りは大変だった.現在のようにコンバインもない時代で,手刈りであるため,まだ朝露のある早朝に行われた.乾燥する日中では莢がはじけてナタネが落下するためだった.それにしても学校に通う国道から見える傾斜地斜面の一斉に咲いた菜の花は季節の風物詩であった.それが消えたのはいつ頃だったのだろうか.たぶん昭和30年ころにはなくなっていた.
 一方,傾斜地のやせ地には除虫菊が栽培されていた.これが7月には一斉に白い花が咲き,山の斜面を着飾っていて,遠くからでもそれらは確認できた.除虫菊はやせ地の方がよく花が咲くことから,やせ地の栽培作物でもあった.除虫菊が傾斜地から消えたのはナタネより早い時期であった.人工の殺虫剤が出回るようになったからである.たぶん昭和25年ころにはなくなっていたように思う.除虫菊は蚊取り線香に使われているので,いまでもどこかで栽培されていると思うが,北海道で見かけることはなくなった.
ところが1995年ころから,北海道の滝川市でナタネが栽培されるようになった.そのころわたくしはある特殊土壌地帯のスミレなどを調べているときで,学生たちとその菜の花畑を見つけた時,歓声をあげて菜の花畑を見入った.それから2,3年たち,この地帯の菜の花は一大観光地に変っていった.個人の乗用車で,あるいは小型バスで菜の花畑にある狭い道路に駐車して菜の花を見る人たちが大勢見かけるようになった.
 このような菜の花畑の観光を見ていると,北竜町を訪ねた時のヒマワリ畑が思い出される.当時東京農業大学に在職していた1994年ころ,教員10人ほどで北竜町を訪ねたことがある.その時,町の職員の言ったことは,「地方に出向いて,「北竜町とはどこにあるのですか」と尋ねられると,旭川の南の・・・」と答えていたとのこと.また町民は下を向いて歩いていたとも言われた.しかし今はみなまっすぐ前をみて歩いていると.大規模のヒマワリ畑は多くの観光客を呼び寄せ,北竜町がすっかり有名になったことの恩恵であった.
 ヒマワリ畑を見ると,ソフィア・ローレン主演の「ヒマワリ」を思い出す.いま戦争の真っただ中のウクライナが舞台である.広大な土地と生産力の高いチェルノーゼムの土壌はヒマワリだけでなく,コムギの生産でも世界の食料生産基地なのだ.一刻も早く戦争の終わることを願うばかりだ.(続く)