水野直治先生 エッセー集 {2024年} 11~20 

Date:2026.02.09

11. 亜麻
 除虫菊と並んで北海道の農業から消えた作物として亜麻がある.亜麻の種子は3mmほどの楕円形をした種子で,栽培法は他の農作物とは異なり,条播することはなく,ばらまきで栽培された.したがって草取りなどはせず,種子が完熟して茎が淡褐色(ドッビッシー作曲の「亜麻色の髪の乙女」に出てくる色である)になったとき植物体を根部ごと引き抜くことで収穫する.土を落とし,乾燥してから30kgほどに梱包して出荷していた.収穫期は確か7月下旬から8月にかけてであった.出荷先は学校の跡地などの空き地にまるで大きな家の形のように積み上げられていた.これが亜麻工場に運ばれ,皮の部分の繊維をとり用いられた.
 亜麻の花は水色の直径2cmほどの大きさで,午前中だけ咲くとてもきれいな花の印象がある.この花を見るためにも花壇に栽培してみたい思いがいまでもある.亜麻の実の脱穀は畑から抜いて乾燥してから丸太などに叩きつけて落としていた.繊維になる植物であるので,動力脱穀機を使うと脱穀機に絡む危険があったのではないかと思っている.何分70年も昔のことで記憶が確かでない.
亜麻の栽培は昭和40年ころにはほとんどなくなり,亜麻の工場は1967年(昭和42年)には無くなったという.札幌市の麻布の地名はこの亜麻工場からきているといわれる.2006年ころから札幌からほど近い当別町で再び亜麻栽培が始まったといわれる.まだ見に行っていないがぜひ見に行きたい.
 多量に出る種子は油の原料になった.亜麻仁油である.今でこそ亜麻仁油は高いが,当時はイネの育苗用の温床障子の紙に塗っていた.昭和20年代の終わりころはまだビニールが出回っておらず,水田の陸苗代は育苗用障子に紙を張り,これに乾性油の亜麻仁油を塗って育苗をしていた時期がある.乾性油と言ってもピンとこない方もおられると思うが,一般の油はいつまでも乾かず流れ落ちる.しかし乾性油は乾いて流れもせず,またあちこちに油が付くことがない.ご承知の油紙がそれである.温床障子の紙に亜麻仁油を塗る前に,油を柔らかくするために加熱する場合もあり,目を離したすきに油に火が入り火事になる場合もあった.
 亜麻の原産地はコーカサスから中近東らしく,BC3000~2000にエジプトでも栽培されていたらしい.栽培が急激に普及したのは17~18世紀からとのこと.現在栽培面積が世界一なのはアメリカで,次いでカナダ,アルゼンチンであるという.日本で繊維用栽培は明治19年にアメリカとヨーロッパから北海道に導入されたといわれる.

12.函館で石川啄木が愛した人
 現在は岩見沢市になっている北村牧場の前に立札が出ていて,そこには牧場を作った北村謹の奥さんとなった橘智恵子(戸籍では知恵)と石川啄木との経緯が記されている.橘智恵子は札幌のリンゴ栽培家の橘 仁の娘で北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み,明治39年に函館の弥生尋常小学校の教員となった.明治40年6月に石川啄木もこの小学校の教員となって入ってきた.明治40年の8月25日に函館の大火があり,学校も無くなり,二人とも教員をやめていく.しかし啄木は智恵子への思いが強く,彼女に歌集の「一握の砂」を送ったという.智恵子から届いた礼状はすでに北村の姓だったという.智恵子の夫となった北村謹は智恵子の兄の友人だったという.その後智恵子は困窮していた啄木にバターなどを送ったと記録がある.そして智恵子は2男5女の母となるが,33歳で亡くなっている.
智恵子の長女の道子さんは酪農学園短期大学の中曽根徳二先生の奥さんであり,北村牧場は中曽根先生の息子さんが現在経営しているという.わたくしは中曽根先生の教えを受けた一人である.酪農学園大学の教員になってから,国道近くにあるレンガ作りの建物である「精農寮」に興味がわき調べた.酪農学園には火事の時これらの設計図も消失し残っていないとのことであった.そこで内側と外側から寸法を測り,どのような構造か書き残し,手伝ってくれた学生の卒論として残した.出来れば古い過去の農具などの展示会場にしたかったのである.残念ながら建物が古く,建築基準法上それは無理だとなった.寮の建設の経緯がわからなくなると,中曽根先生の奥さんの道子さんを訪ねた.道子さんによると,この精農寮は野幌機農高等学校の寮として昭和17年ころ機農校の生徒と共に建設したという.その時,中曽根先生は上野幌から馬に乗って通って建築を指導したとのことだった.

13.夕張川は支笏湖のできる前に苫小牧方面の太平洋に流れていた
 北海道立中央農業試験場の職員であった私共が札幌市琴似町から北長沼に新築された農業試験場に職場が移動するため,栗山町に移転してきたのは昭和42年の11月であった.霙の降る寒い時期だったと記憶している.公宅は現在の栗山小学校の前の道職員公宅のある敷地内で,一棟2戸建てのレンガ色をの北側を向いており,小学校の門前には大きなしだれ柳があった.現在の図書館にあるしだれ柳はそれから取り木したのではなかったろうか.
 1990年にわたくしは30年務めた道職員をやめ,網走の東京農大に赴任した.1994年には母校でもある酪農学園大学に移ったが,地質学的に夕張川の流れがどのように変わったか興味が湧いた.農試に入ってからの研究課題は蛇紋岩土壌の重金属対策だったからである.夕張岳もその蛇紋岩からなり,そのためシソバキスミレやユウバリキンバイ,ユウバリコザクラなどの美しい蛇紋岩高山植物もある一方で,溶け出す蛇紋岩粘土はニッケルとマグネシウムに富む.この二つの元素を追っていくと夕張川は長沼の馬追山麓に沿って千歳市の近くにたどり着いた.しかしそれから先はわからなくなった.
 いまから32,000年前に,樽前山と恵庭岳の間にあったといわれる支笏山?が大きな爆発をし,多量の火砕流が石狩低地帯(石狩と苫小牧に至る低地帯)を埋めたからである.室蘭からウトナイ湖,北は札幌市の石山まで広がり,石山の周辺の山で止まった火砕流はそこで再び熱を帯びて一部溶け,現在に残る軟石になった.
 このような状況からみると,支笏湖のできる前,夕張川は千歳川(支笏湖のできる前に千歳川があったかどうかわからない)と合流し,現在の美々川を通って太平洋に流れていたことを容易に想定できるのである.ただ石狩低地帯は支笏の火砕流が流れ込む前は10m以上低かったからその分現在より低く,氷河期以外は海水に満たされていたかもしれない.

14. 美々川とベニサケ
 25年ほど前に学生と千歳から苫小牧に流れる美々川の水質調査をしたことがある.4月から雪が降る初冬までである.美々川は千歳空港近くの公立千歳科学技術大学裏の小さな千歳湖に起源がある.ある時,国道36号線の下をくぐる美々川の支流を眺めていると,サケが泳ぎ去るのを見た.その時はこんな川にもサケが遡上するのだと感じた程度であった.
 美々川の採水をしていたある時,その場所の近くに腹を裂かれて投げ捨てられていたサケをみた.ベニサケである.このようなところにベニサケがいるとは考えてもいなかったので驚いたのと,もう一つは腹を引き裂かれて筋子だけをとって投げ捨てられた無残な姿を見てその行為者に対する怒りでもあった.それにしてもなぜこのようなところにベニサケがいるのか不思議だった.ベニサケは上流に湖のあるところにしか遡上しない.不思議に思ったので,道庁水産部に勤務する友人に聞いてみた.そうしたところ北海道では千歳湖と陸別と訓子府の中間にあるチミケップ湖にベニサケを放流したとのことであった.
 支笏湖のチップの愛称で呼ばれているヒメマスは陸封された阿寒湖のベニサケの子孫である.この支笏湖のヒメマスは魚の住まなかった十和田湖に銀鉱山を経営していた和井内貞行が鉱員の栄養改善のために1902に移植された.放流されたヒメマスは1905年,湖岸に押し寄せ養殖が成功する.この感激の場面は小学校国語教科書でも取り上げられた.
有珠山が大爆発をした2001年以降の2006年に洞爺湖町に行く機会があった.驚にいたのは町長室にあった1m近くの大きなサケのはく製であった.農作物の試験で通っていた1965年ころの洞爺湖のヒメマスはせいぜい30cmほどであった.それが有珠山の大噴火でアルカリ性の火山灰(pH 8前後)で洞爺湖の酸性水が中和され,餌となるエビやプランクトンの増加でヒメマスも大きくなったという.この巨大なサケは2008年の洞爺湖サミットでも当時の福田首相によって各国の首脳にも紹介された.生物の生態が環境の変化で大きく影響を受けたよい例であろう.

15.プラウの来歴とガルトネル事件
 農耕に重要なプラウはエドウイン・ダンによって持ち込まれたとばかり思っていたが,その前にプロシアの貿易商R・ガルトネルによって持ち込まれていた.1868(明治元年),榎本武揚の率いる旧幕府脱走軍は蝦夷地(明治2年以降北海道となる)を占拠した.そこへプロシアからやって来たR・ガルトネルは七重村付近の開墾計画を脱走軍に申し入れ,箱館奉行が許可する.そして翌年2月に「蝦夷地七重村開墾条約書」に調印する.契約内容は約1,000ヘクタールの土地を99年間貸与するというものであった.
 その年の5月に脱走軍は敗れ,新政府に引き継がれる.新政府は外国資本の排除を打ち出す.そして厳しい返還交渉の末,ガルトネルの申し出の62,500ドルの高額な賠償金を支払い,土地を開拓使に取り戻した.1970(明治3)のことである.これがガルトネル事件である.なぜ外国資本の排除に走ったか,それは隣国・清帝国の香港やマカオの悲劇を見ていたからである.このときガルトネルとの契約が続行されていたら,北海道に1968年までドイツの領土が存在したことになっていた.田辺安一によれば1978(昭和53)とあり,99年間の始まりは開拓完了の10年後からの計算のためである.エドウイン・ダンが明治8年に七重官園に入ったのはこの土地の一部である.
 ところでプラウであるが,七重の土地にはガルトネルによって明治元年から足かけ3年農場の開拓に使われた.その時ガルトネルはプロシアから多くの農具を持ち込んだ.プラウもそのとき入ってきた.そしてガルトネルの農場では,農具係を務めていた藤本二三吉が日本人で初めてプラウを使った.
 以上は田辺安一の「ブナの林が語り伝えること」にくわしい.余談になるが田辺氏はわたくしが道立農試の環境保全科にいるとき,畜産部長をされており,異常な銅含有率の豚糞処理の問題を何回か協議したことがある.また,プラウがガルトネルによって持ち込まれたことは「ブナの林が語り伝えること」を執筆中のころ北広島の自宅でお聞きした.

16. 動物になぜ鉄が必要なのだろう
 子供の時,転んでひざをすりむくと赤い血が出ることは誰でも経験しているのではないか.赤い色は鉄が含まれるからだといわれる.赤い血はヘモグロビンというタンパク質の真ん中に鉄の原子が一個入っているため赤い色をしているのだという.ただヴオートの生化学によると,この鉄はFeⅢ(三価)の鉄でなくFeⅡ(二価)の鉄だという.鉄は三価で赤く,二価では青いのである.水に漬かっている粘土の鉄は二価で青く,焼いた鉄は三価で赤いのはそのためである.血液は赤いのに二価の鉄とは信じがたい.
肺の中でこの鉄に酸素が結合して動脈を通り毛細血管に入ると,酸素の少ない毛細血管では糖の消費で発生した二酸化炭素(CO2)が発生する.これが水と反応すると水素イオン(H+)と炭酸水素イオン(HCO3-)になるといわれている.そのため毛細血管では発生した水素イオンのためpHが7.4から7.2に下がる.この水素イオンがヘモグロビンに結合している酸素を追い出し,水素イオンがそこに結合する.これによって酸素は体に供給されるという.
 水素イオンを結合したヘモグロビンは炭酸水素イオンを伴って肺に達すると,そこでは今度は酸素濃度が高いので,水素イオンを放出し,伴ってきた二酸化炭素ガス(炭酸ガス)も外に放出,酸素をヘモグロビンの鉄につけるといわれる.これが呼吸によって酸素の吸収と二酸化炭素放出のメカニズムらしい.
 人が1日に必要な鉄は男性が10mg, 女性が18mgと言われる.食べ物で採れる鉄の量は,一般の野菜では1kg当たり50mg程度であるから,1日当たり300gほどの野菜をとらないと必要な鉄にならない.米では野菜の5分の1程度の鉄の量にしかならない.それを補うには肉や魚介類が必要であろう.
 ここでは動物の鉄を上げたが,血液に鉄を含まない動物もいるのである.皆さんはすでに見ていると思うがイカやタコ,あるいはカニやエビには青い色を見ているに違いない.あれが彼らの血液である.鉄の代わりに銅が入っているので血液が青い色をしている.ヘモシアニンという.想像するに銅は鉄より結合力が強いことから,地球に現在より酸素濃度が低い時に現れた生物ではないだろうか.
 大気中の酸素ははじめから現在のように21%も含まれていたわけではなく,太古の大気のほとんどが二酸化炭素だったといわれる.植物が出現し,光合成を始めることによって大気中の酸素が増大していったとのことである.したがって酸素濃度の低い時に発生した動物はヘモグロビンでは呼吸ができず,酸素と結合力の強いヘモシアニンが必要であったろう.

17. シマリスはどこに行った
   春が来ても小鳥は鳴かず  レイチェル・カーソン
 開拓地に入った当時,畑のムギやエンバクの実りの秋が来ると,シマリスたちがあちこちからでてきて彼らは食べ物のムギ類を手に持ってむさぼり食った.この光景は水田になっても食べるものが籾に変わっただけであった.シマリスは春が近づき,雪が少なくなり堅雪になると地下から出てきて雪の上を走り回った.恋の季節である.そして森中に響き渡る声でコロッ,コロッと鳴いた.その声を聴くのをいつも楽しみにしていた.北海道に春が来る声であり,美しい歌声でもあった.
 林の中の倒れ掛かった木にはときどきコノハズクがしがみついているときがあった.また,林や空き地の上空は昼日中でもフクロウが飛ぶのを見かけた.これらを見かけなくなったのはいつからだったか.そう,近隣の雑木林が切り払われ,カラマツが植林されてからだ.カラマツはよく野鼠にかじられて枯れていた.そのため森林組合ではカラマツ林に殺鼠剤が使われた.特に50年ほど前には強烈な殺鼠剤が使われたと聞く.それは殺鼠剤で死んだネズミを食べた猛禽類も死ぬものだった.フラトールと言っただろうか,その殺鼠剤は.
 開拓地を離れることがなかった親父は,飛んでいるトビやフクロウが突然落ちてくるのを見たという.殺鼠剤を食べて死んだネズミを食べたのだ.当然家の周りに遊びに来ていた狐も減り,一時は全く見かけなくなった.現在,フラトールは使われていないと聞く.フクロウやタカ類の猛禽類やキツネなどにも影響することがわかって使用停止になったと.
シマリスが減りだしたのは殺鼠剤が使われだしてからだ.そのころからだ.シマリスは死んだネズミは食べないが,食べ物は野鼠と同じである.植林地に行き,殺鼠剤の入った毒餌を食べたのだろう.春先のシマリスの声が聴けなくなったのは20年ほど前からだ.はじめは何で鳴き声が減ったのか気が付かなかった.フクロウもコノハズクも見かけなくなった.あれほどいたのに残念である.
 いまはシマリスの代わりにエゾリスが走り回っている.エゾリスは木の実が主食で,殺鼠剤の入った毒餌は食べない.彼らは主に樹上を走り回る.いまは彼らが慰めである.いつになったらシマリスが帰ってくるのだろうか.
 
18.スズメ
 スズメがずいぶん少なくなった.50年ほど前は何百羽もの大群があちこちの水田地帯で見られた.特に秋,イネの収穫期になると水田のイネにも群がるが,収穫で稲架からイネを下ろし,脱穀,籾摺りが始まると,子実が入った籾殻や未熟なコメも農家の作業納屋の外に堆積されるので,それを目指してスズメたちが集まってくる.また,農家の納屋や住宅にもスズメを引き付けるところがあった.スズメたちは農家の家や納屋の軒裏に巣作りをしていた.そのころの農家の家や納屋の軒先は軒天でふさがれているところがなく,そのため軒先から容易に軒裏に入り込めた.したがってスズメたちは巣作りや住むところに困らなかった.
 豊かになった現在の農家の家は軒天が完備され,スズメが軒裏に巣作りができなくなった.これがスズメの減った最大の原因ではないだろうか.スズメの巣作りを見ていると,木の枝に巣作りをする鳥たちと異なり,上から巣に舞い降りるようなことはしないようだ.軒裏に巣を作るときのように,軒先から上に巣を作る.何かをくぐるようにしてそこに巣を作るようだ.したがって,巣箱を作って置いても他の小鳥のように巣箱に入らない.どうも上や横から巣に入ることはなく,下からくぐるようにすると入るようだ.そこで我が家では換気孔の一つにスズメの入る構造にしてやったところときどきヒナを育てているようになった.スズメの他にこのような性質のある小鳥はいるだろうか.
 秋,イネの収穫期になると,多数のスズメが近くのアシ原に集まりにぎやかに騒いでいるのをよく見かけた.しかし最近はこのようなアシ原も無くなり,これもスズメが減った原因の一つかもしれない.
 面白いのは,スズメは人里を離れるといないことだ.人の近くに住むタヌキはけもの偏に里と書くが,スズメも人の住む領域にのみ生活している.林の中にある開拓で入った土地の我が家の別荘?に決してスズメは来ない.その代わりニュウナイスズメが2羽春先やってくる.ニュウナイスズメはスズメとそっくりであるが,スズメにあるような頬の黒斑がなく,森にすむ小鳥だという.確かロンドンかアムステルダムか記憶は定かでないが,そこで見たスズメは頬に黒斑がなく,あれはニュウナイスズメだったのだろうか.

19. キジ
 昭和25年または26年ころではなかったか.畑にキジが5,6羽のヒナを連れて出てきたことがある.鶏のヒナのようなヒナであった.その前にもときどき30cm以上の長い尾羽が落ちていたので,キジがいるのだろうとの予感はしていた.しかし実際に見たのはこの時が初めてである.しかしよく見ると首に白い輪があるではないか.日本のキジにはこのような白い輪はないのである.
 そこで少し調べてみた.首に白い輪のあるのはコウライキジとのことである.外来種である.昭和になってから放鳥したらしい.そこで遠い子供の時を思い出した.4歳から6歳までの間満州にいたことがある.ある時親父がキジを持ってきたことがある.罠をかけて置いたらかかっとのことだった.満州には結構キジがいて,多くの人が罠をかけていたらしい.満州は朝鮮と地続きなので,コウライキジは豊富にいたのだろう.何しろ広い草原が広がっているのだから.
 その後我が家の畑に出てきたキジはどうなったか,その後はあまり人の前に姿を現すことはなくなった.それでもときどき長い尾羽を拾うことがあるので,いることはいるようだ.国道を車で走っていると時々キジが車の前を横切ることがある.特に多く見かけるのは野幌の町はずれから千歳川までの間である.たぶん,あの辺りは野幌森林公園からあまり遠くはないし,トウヒなどの防風林が適当にあってキジが住むには適した平原ではないだろうか.ただしキタキツネもいて,キジとしては安閑としてはいられないのではと勝手に心配している.
 子供の時,ウズラが裏庭に飛んできたので捕まえたことがある.しかし北海道の自然でウズラが自然繁殖しているとは到底考えられない.ウズラを見たのはその時だけである.その点キジとは異なるように思われる.10年ほどになるが,栗山町の我が家の窓先に,コウライキジが一週間ほど毎日通ってきたことがある.雪の積もった真冬である.餌もあまりない時期なので,民家のところまで来たのだろう.その後,姿を現さなくなったがコウライキジは意外と根強く北海道に残っていくのかもしれない.

20. 稲架掛け
 テレビで北アルプスの麓の村で稲架掛けしているところが放映された.コメの味がよくなるとのこと.北海道では現在稲架掛けイネを見ることがほとんどなくなった.イネ刈にコンバインが入ってきた当時は自分達が食べるコメに限って稲架掛けするのが見受けられた.理由は美味しいコメになるとのことであった.稲架にかけたコメはなぜ美味しくなるのだろうと考えてみた.
 北海道米は長い間美味しくないとの評判だった.そこで北海道立中央農業試験場稲作部に優良米早期開発プロジェクトを昭和55年に立ちあげた.しかしその前に食味の良し悪しを決めている要因がすでに明らかにされていた.それを成し遂げたのが稲津 修博士である.米の味を決めるその2大要因とは,1つはタンパク質,2番目はデンプンのアミロースである.
タンパク質はチッソ肥料の施肥法でかなり改善できるが,デンプンの方は遺伝的要因が強く,イネの品種あるいは系統で異なる.米に含まれるデンプンには2種類あり,一つは餅米のデンプンであるアミロペクチンで,これは分子量が大きく,枝分かれしているデンプンで,餅にするとそれぞれのデンプンが絡み合って,粘っこい餅になる.一方,アミロースはそれぞれのイネの系統で含有率が異なり,このデンプンは直鎖型デンプンである.餅にならないデンプンであり,含有率が高いとぱさぱさしたご飯になる.東南アジアで食べられている細長い米はこのデンプンが多い.
北海道米は全国でも美味しい米にランクされるようになった.しかしこの問題は稲架掛けとは関係のない話である.
 そこで小豆のことで見てみよう.小豆は刈り取り収穫後しばらく畑に立てておくのが普通である.もし刈り取り後すぐ落として乾燥機に入れると,未熟だった小豆が皺だらけのくしゃくしゃした豆になり,使い物にならない.しかし刈り取り後茎についたまま放置し,乾燥すると,未熟だった小豆も小粒にはなるがきれいな小豆になる.大豆は晩秋枯れあがっても,雪の降るまで放置しているのも同じ理由であろう.
 このように考えると,稲架掛けの効果も見えてくる.イネは出穂が遅れても登熟期が揃うようにできている.同じ穂では早く出穂する先端部分の籾が大きく, 遅く開花する下側の籾ほど小さい.また遅れて出穂する穂は早く登熟するように籾殻の成分がみられる.それでも全体で見れば未熟な籾,または未熟な米粒の混入は避けられない.コンバインで刈り取った籾は乾燥機で強制的に乾燥するため未熟米は未熟米のままコメにまでなってしまうのである.これで小豆などの例から,稲架掛けの効果見えてくる.おそらく未熟米の解消が「美味しい米」の効果であろう.(続く)