水野直治先生 エッセー集 {2024年} 21~30
Date:2026.02.09
21. 高木兼寛と栗山
日本の近代は脚気大国であった.徳川3代将軍の家光も14代将軍の徳川家茂,妃の和宮も脚気で亡くなった.原因は白米偏重食にあった.原因が細菌説の時,一早く栄養説で対策を打ち出したのが高木兼寛である.オリザリン(ビタミンB1)発見の鈴木梅太郎の前である.この功績に対し,南極大陸に高木岬と名付けられた場所がある.イギリスの南極地名委員会によって昭和34年に高木兼寛に因んで命名された.説明に「日本帝国海軍の軍医総監,1882年,食事改善により脚気予防に初めて成功した人」と記されているという.ほかには著名なビタミン学者5名という.日本では鈴木梅太郎の名が知られているが,欧米では高木兼寛の評価が高い.高木兼寛は1849年,現在の宮崎県日向に大工の子として生まれる.
1870年開成校で英語を学び,1972,イギリスの医師ウイリアム・アンダーソン」博士に医学を学ぶ.1875-1880の6年間,イギリスのセント・トーマス病院医学校に留学し,優秀な成績で学業を終える.高木兼寛がイギリスで驚いたのは脚気患者が一人もいなかったことである.高木兼寛は帰国後1882年に無料の施療所である有志共立東京病院を創立する.これは現在の慈恵会医科大学病院に繋がる.1886年にはさらにセント・トーマス病院のナイチンゲール看護婦養成所に倣い,看護婦養成所も創設する.
帰国した高木兼寛は海軍軍医の大医監(中佐待遇)になるが,1882年(明治15年)に遠洋航海に出た軍艦・龍驤 に多数の脚気患者が発生した.乗組員総数381名のうち脚気患者169名,死者49名にも及んだ.この中で食事の良質な士官に発生が少ないことから,高木兼寛は食事を疑った.当時,脚気の原因はドイツ医学の流れの強い東京大学医学部の強い陸軍は細菌説であった.しかし高木兼寛は西洋人に脚気がみられないことから食事に狙いをつけ,1884年に軍艦・筑波で乗組員を洋食組と和食組に分け,龍驤と同じ遠洋航路をとって脚気発生の実験を決行した.結果は明白で脚気は和食組にのみの発生であった.一方,陸軍の近衛連隊ではパン食で脚気が発生しないことから麦飯を採用し,脚気患者は大幅に減少した.しかし麦飯を推進した軍医は石黒軍医総監らによって左遷された.また日清戦争や日露戦争で陸軍は多数の脚気患者を出したにも関わらず.麦飯をとることはなかった.
高木兼寛は1892年(明治25年)に貴族議院議員となり,男爵となった.高木兼寛と栗山の関係はこの時から始まる.1893年に角田村(現在は栗山町の一部)で開墾事業を興す.高木農場は旭台,中の里,杵臼,桜山などに分散していたが267町歩におよぶ.高木兼寛は角田神社,雨煙別神社に敷地を寄付している.また角田と栗山には小学校を建設し,子弟教育の充実にも心を砕いたという.
22. 脚気と森 鴎外(森 林太郎)
日露戦争で27,000人の陸軍兵が食事で死亡したという.原因はその時軍の医師の責任者であった森 林太郎のスーパーエリートの驕りだった.まだ脚気の原因がわからない時期であり,森は白米の推奨を止めることがなかった.明治時代,三大栄養素は炭水化物,タンパク,脂質だけで,まだビタミンの重要性は知られていなかった.
当時,脚気は来日したドイツの医師,ベルツの脚気細菌説を東京大学医学部出身者は信じ込んでしまった.白米を食べないヨーロッパには脚気はなかった.1884年(明治17年)8月24日横浜,陸軍軍医森 林太郎も細菌説を信じた一人である.森は島根県の医師の家に生まれた.5歳で論語,8歳でオランダ語.10歳でドイツ語を学ぶ.11歳で「東大医学部予科に学ぶ.大学を史上最年少の19歳で卒業,陸軍軍医となる.
ドイツのコッホのもとに留学し,細菌学を学ぶ.脚気の原因については海軍軍医の高木兼寛は細菌と全く違うと考えていた.そこで高木はその原因究明に乗り出し,そして栄養素の偏りに原因があるのではと考えた.そして壮大な実験にとりかかった.多数の脚気患者を出した龍驤との比較実験である.軍艦筑波を使い乗組員の食事を白米中心から洋食のパン,肉を中心とした洋食にした.そして脚気患者を出した龍驤と同じコースをたどらせた.8か月後ハワイの筑波から電報が来た.〔病者一人もなし〕と.しかし高木も他の栄養素までは考えが及ばなかった.これを聞いた陸軍の軍医は慌てたが,それでも白米中心主義を改めなかった.高木は陸軍に反論しなかった.高木は未知の栄養素まで考えが及ばず,未知の発見の機会を逃がした.高木の素晴らしいところは観察を重視し,実証主義の「疫学」であった.森は追試験をやらなかった.
森が「舞姫」を発表したのは1890年である.この4年後,1894年,日清戦争が勃発.陸軍の食事が試される.「白米6合」を食べていればおかずがなくても大丈夫と主張した.
日露戦争では兵士23,338人のうち,9割の1921,087人の脚気患者を出し,2,000人以上が死亡した.海軍は麦飯の支給を続けていた.脚気患者は34人でしかも軽症であった.脚気は食事で防ぐことができると陸軍を批判した.そんな中,陸軍の兵士から麦飯の支給が要求されたが,森たちはそれを無視した.日露で陸軍は脚気患者を25万人出し,死者27,468人もだした.驕り,エリート意識がこのような悲劇となった.
1908年,コッホが来日し,コッホは日本の脚気には細菌性と栄養の欠陥の双方があるかもしれないとし,森に伝える.そこでコッホはオランダ領のジャカルタに脚気とよく似たベリベリという病気が発生している.それを参考にしてはといった.そこで森は調査員をジャカルタに派遣した.しかしジャカルタでは意外なことが起こっていた.ベリベリはほとんど消えていた.患者にあるものを食べさせることで脚気の発生が抑えられた.指導したのは医師で生理学者のフレインスとエイクマンであった.彼らは高木の麦飯を食べさせることで脚気を防止するとの説を発展させ,エイクマンらは玄米に含まれ,白米にすることで失われるものがあるのではと考えた.
帰国した調査委員は報告したが誰も聞く耳を持たなかった.この突破口を開いたのは意外な男だった.農学者の鈴木梅太郎である.静岡県の農家に生まれの農学者であった.1911年,鈴木梅太郎はジャカルタの脚気が糠の摂取で抑えられることから,糠からある成分を抽出し,これは脚気に効果のあると考え,その成分を抽出した.その成分は従来の栄養素と異なり,生きていく上に必要不可欠な物質である新しい栄養素であると主張した.ビタミンの概念の提出であった.鈴木は脚気を治療する因子という概念でなく,「高等動物の生育に必須の要素である」という概念で提出した.
しかし医学者は農学者に冷淡だった.農学者に何がわかるかとの姿勢であった.鈴木梅太郎はその抽出物質をオリザニンと命名した.オリザリンはイネを意味するオリザからである.鈴木は1年後ドイツ語の論文を発表したが,それより半年前にポーランド人のフンクがビタミンとして発表していた.「Vital =生命に必要な」 を込めていた.日本が世界に先駆けて栄養学の先陣を切るチャンスがこれで失われた.鈴木梅太郎は新しい栄養素の発見の栄誉を取り逃がしのである.栄養学の世界的な発見であったが,鈴木梅太郎はそこまで考えていなかったのかもしれない.なぜならオリザリンと命名したことはコメのみに気を取られていた鈴木の限界を示しているのかもしれない.
1922年,森鴎外は60歳で死去した.その後医学関係者は脚気の栄養素欠乏を認めた.一方,高木兼寛は東京慈恵会医科大学(当初は成医会講習所)を創立し,その後病院とイギリス留学中にナイチンゲールの看護に感激した高木は看護師養成にも尽力した.
ビタミンB1の発表後,新しいビタミンが次々発表された.壊血病のビタミンC,くる病のビタミン D, 夜盲症のビタミンA, その他もろもろである.しかし1949年以降,新しいビタミンは発見されていない.
1929年のノーベル賞に鈴木梅太郎が推薦されていた.湯川のノーベル賞受賞の35年前である.東大医学部に在籍していたドイツ人教授は鈴木を推薦することはなかった.もし鈴木がノーベル賞を受賞すれば脚気細菌説を唱えていた医学部のメンツがつぶされると感じていたのだろう.メカニズム,疫学,実証主義は今でも少数派である.脚気だけでなく,現在でも日本の研究者に欠けているものがある.無名者の優れた研究に対する偏見である.先輩研究者は自分にできなかったことが彼(ら)にできるはずがないと,の評価である.外国で評価されて初めて認めるという悪習のこのことは若い優れた研究者を多くつぶしてきた.
南極大陸の南緯65度33分に高木岬(Takaki Promontory)と命名されたところがある.英国の南極地名委員会によって,昭和34年に高木兼寛に因んで命名された.その説明に「日本帝国海軍の軍医総監,1882年,食事改善により脚気予防に初めて成功した人」と記されているという.この岬には高木のほか著名なビタミン学者5名の名がある.その中には先に出てきたエイクマンとフンクの名も出てくる.日本ではビタミン学者としては鈴木梅太郎であるが,欧米では全く逆で,高木は「ビタミンの開拓者」として日本のどの栄養学者より圧倒的な評価を受けている.
この高木兼寛の晩年,意外な形で栗山町と関係のあることがわかった.栗山町の不在地主として関係を持ち,栗山小学校などの開校に貢献している
23 気心を伝えるのは言葉でなく心である
1988年のある日,不思議な英文手紙が自宅に届けられた.北海道夕張だけの住所とDr. Mizunoだけで届いた.夕張郡でも夕張市でもない.普通なら郵便を出した人に戻される郵便であろう.郵便を出した人はこれまで会ったこともない人で,ニュージーランド・マセイ大学のDr. RR Brooks名誉教授であった.当時73歳であった.手紙の内容は北海道の蛇紋岩地帯を見たいので宿泊と食事,案内をお願いしたいとのことであった.
英会話も苦手なことから,そのことを述べ申し出を断ったところ,シエクスピアの言葉として「気心を伝えるのは言葉でなく心である」を意味する手紙を再度送ってきたので受け入れた.1989年,北海道に来てからDr. Brooksは2週間ほど滞在した.到着直後にもう一人の大物外国人が我が家にやってきた.アメリカ・シアトルのワシントン州立大学名誉教授のドクター・クルックバーグ名誉教授であった.来道した時は80歳近い方であったが,極地探検の資格を持っているとのことであった.いつも半ズボンであった.どうも二人ははじめから打ち合わせて日本にきたらしいのであった.クルックバーグ博士は四国から各地の蛇紋岩地帯を1カ月かけて北海道までやってきた.そして1週間ほど我が家を拠点に道内の蛇紋岩地帯を野坂志朗博士やその他の蛇紋岩愛好者と見て歩いた.夕張岳,アポイ岳,仲間に営林署の方がいたことから襟裳岬の防風林造成地域まで見て回った.その後ブルックス博士はクルックバーグ博士と別れた後に穂別・坊主山,音威子府の北大演習林,幌延町問寒別のヌポロマッポロ川流域の貴重な蛇紋岩植物であるテシオコザクラも見せることができた.
まさにシエクスピアの言う通り彼らと生活を共にして意思疎通の不便を感じることはなかった.家内も食事,洗濯,部屋の掃除などをしていたが言葉で行き違いがあったこともなく時は過ぎた.困ったことと言えば二人とも大男で,特にクルックバーグ博士は190cmもある方で,家のドアや戸の作りが180cmもない高さなどで困ったくらいである.
この二人の科学者は世界でどのように評価されているかその時はまだ知らなかった.二人とも農学関係者ではなく,理学関係だったからである.あるとき,我が家でビールを飲んでいるとき,二人の話題になったことは,1993年の蛇紋岩生態学の第一回国際会議をどこで何時するかということであった.そして「大会長はクルックバーグ博士がやれ」ということになった.このような国際会議の実施を二人でしかも我が家で決定されるとは考えもしなかった.結局この大会はカリフォルニア大学・バークレイ校でやることになり,「お前も出てこい」となり,東京農大に移ってから出席することになった.
バークレイ校の大会の後,わたくしはクルックバーグ博士に伴ってシアトルに行き,ワシントン州立大学の寮に5日間世話になり,クルックバーグ博士の運転する車で,研究フイールドを見学する機会に恵まれた.車の運転中はモーツアルトの曲が絶えず流れていた.それが習慣だとのことであった.そのとき1980年に大噴火をしたワシントン州のセント・へレンズ火山を見せてやると火山の麓まで案内されたが,その日は濃霧で山を見ることができなかった.しかし帰りの飛行機からは晴れ上がった空から雄大なセント・へレンズ火山の火口まで見ることが出来た.「気心は言葉でなく心で伝わる」ことを実感した体験である.

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24. 襟裳岬は木もないところだった
北海道の蛇紋岩などの変成岩は,北は幌延と中頓別の間にある知駒岳から南は襟裳岬で有名なえりも町の隣の様似まで点在する.南端がカンラン岩*のアポイ岳である.1989年,ブルックス博士やクルックバーグ博士たちとアポイ岳に登り,様似に宿泊した翌日である.仲間に営林署の方もいて襟裳岬の植林地の見学となった.
襟裳町は開拓に入った明治期はかしわやミズナラ,シラカンバなどであったが,開拓入植者は燃料のためこれらの木を切ってしまった.そのためただでさえ風の強いこの地帯で襟裳は砂漠地帯になっていったという.砂漠化した襟裳を馬に乗った人の写真を見ると,まるで砂漠を行くラクダに乗った人のように,布で眼だけを出した状態である.陸地の砂漠化は海にまで及んだ.砂漠の土で黄色く濁った海ではコンブや海藻類は光合成ができず,回遊魚は濁った海水を避けて海岸に寄り付かなくなり,漁民の生活も成り立たない状態になっていったといわれる.そこで漁民と営林署はこの砂漠地帯の植林緑化事業に乗り出す.1953年から始まった砂漠の緑化事業は極めて困難であったという.いったん草地化してからとしたが草の種子も吹き飛ばされる状態であった.漁民たちはそこで草の種をまいた後に,海藻の雑草をかぶせ,草の種を守り,開始から7年後にようやく200ヘクタール近い草地の緑化に成功した.その後に植林をしたが,これまた大変で,木は育たずクロマツでようやく緑化に成功する.北海道に無いクロマツが林地の主体になったのはそのような経緯があった.見学に行ったときはすでにクロマツは1~2メートルほどに成長していたが,植林にあたっては植林地をある面積に区切って周りに杭を打ちこみ,それに隙間をあけて板を貼り付け,風よけにしていた.これによって木が育つようになったという.
これを聞いて19世紀にドイツとの戦争で豊かな国土を失ったデンマークは残された不毛のヒース地帯の緑化森林化するにあたり,ダルガスらによる苦心の試練で,多くの樹種の植林で成功せず,アルプスの寒さに強い樹種で成功したことを習ったことを思い出した.襟裳の緑化でも同じ問題があったのだ.
その後,われわれはまだ植林のすんでいない百人浜の現場を見学した.襟裳の強風は年平均風速が8m以上と言われるだけに,やはり現場に行くとそれが実感できる.襟裳の植林は漁民の熱意が無かったなら成功しなかっただろう.現在,北海道だけでなく漁業地帯ではあちこちで山に木を植えることが盛んに行われるようになった.これは防風のためばかりではない.魚の餌となる植物性プランクトンは河川から流れ出る鉄分と密接な関係があるという.河川に流れ出る鉄は林床に落ち葉があって初めて可能となる.3価の酸化鉄では溶けないので,有機物の存在で還元された2価の還元鉄にする溶解からだ.以前留萌支庁に在職しているとき,離島振興のために何回か天売・焼尻島に渡った.ある時,水産学部出身の支庁長と一緒の時,支庁長は「水野,よく見てみろ,山に木がないところには魚がいないのだ」と陸地の森林を指さして言ったことが思い出される.襟裳で植林が始まって間もない時期の出来事であった.
* カンラン岩:蛇紋岩と同じ変成岩で,ほぼ同じ化学成分であるが,水分含有率が低い.
25. 女性科学者の表彰「猿橋賞」のイタリア版が誕生した
蛇紋岩のニッケル過剰障害対策の研究をはじめたときよく読んだ論文がある.O バージナノ博士の論文である.1993年にカリフォルニア・デービス校で蛇紋岩生態学国際会議のあった会場に入ったとき,初老の夫人が目に入った.「バージナノ先生ではないですか」と声をかけた時,わたくしの名札を見て「ミズノ会いたかった」と寄ってこられてびっくりした.まさかわたくしの名前を知っているとは考えもしていなかった.聞いてみると農試で最初に発表した論文は農試の機関誌に発表していた.その日本語の論文を苦労して読まれたという.
この1993年の国際大会の前に,カナダのDr. BA Roberts とイギリスのDr. J Proctorが編集者になって,世界の蛇紋岩地帯の生態学という本を各国の蛇紋岩研究者によってオランダから発行された.日本では植物学の野坂志朗博士とわたくしで書いて発表した.そしてクルックバーグ博士とブルックス博士の来道した翌年に編集者のDr. Robertsも来道し,5日ほど我が家に滞在し,道内の蛇紋岩地帯を見ていった.
この世界の蛇紋岩土壌の生態学にはもちろんクルックバーグ博士もバージナノ博士もそれぞれアメリカとイタリアの状態を書き発表している.残念ながらブルックス博士は書いていない.ブルックス博士はその前に一人で450ページもある本に世界の蛇紋岩の様子をサッサと一人で書いてしまった.しかしカリフォルニアで著者たちの記念写真を撮るときはその中に入ってきて一緒のところを見せている.この第1回蛇紋岩国際大会終了日にはブルックス博士とバージナノ博士に対して長い間の蛇紋岩関連研究に対する貢献にたいして感謝の記念品が手渡された.後年,三重大学にいて蛇紋岩の研究を続けている息子がイタリアでの蛇紋岩国際会議があったとき,フェレンツエ大学に寄って来るように頼んだところ,すでにバージナノ博士は亡くなっていて,日本の猿橋賞のようにバージナノ博士(結婚されてガンビとなっている)の名を冠した女性研究者に対する賞ができているという.素晴らしい研究者との出会いに感謝したい.

カリフォルニアにて.前列の背の低い女性が
バージナノ博士
26. ムギの銅欠乏の話―Ⅰ
銅は植物に必須の栄養素である.銅を欠乏するとムギ類の場合は子実が入らないのである.コムギの場合,農家は収穫期になってはじめてコムギに実が入っていないことに気が付く.銅欠乏の出た畑では写真1-Aのように,収穫期のコムギ畑はまだら模様になって黄金色となったところと緑のままの所が出てくる.緑のところのコムギは実が入っていないのである.もし秋まき小麦であったなら,銅欠乏の激しいところは春先から成長せず,収穫期になっても穂も出ない状態になる(写真1-B).
このようにひどい状態になる前に銅の欠乏を判断する方法はないのだろうか.それがあったのである.穂の出る前, あるいは出穂したばかりの茎の汁を絞って糖含有率をブリックス糖度計で測ると,そこには歴然とした差がある.コムギの場合,茎の中の糖含有率は一番下がもっとも糖の含有率が高く,上に行くほど低くなる.正常なコムギの最下部の茎の糖含有率は25%にもなるが,銅欠乏のコムギでは同じ部位でも10%くらいしかならない.そのため茎も伸びないし花粉もできないのである(表1,写真2).コムギ体の中での炭水化物の移動は糖で行われているためである.デンプンで移動するわけではない.
表1からもわかる通り,糖含有率の低いコムギは水分含有率が高い.よく銅欠乏コムギ症状の写真に葉先のよじれが出てくる.なぜよじれるか,それは水分が多く,少し風が吹いて乾燥すれは干しあがり,雨が降ればまた伸びることを繰り返しているうちによじれるのである.銅欠乏だからよじれるとは限らないのである.そのことを間違えないでほしい.
花粉の状態を写真2に示した.これからもわかる通り,正常な花粉は中にびっしりとデンプンが詰まっている.そして染色してみると,大きなまん丸い花粉の中に栄養核と生殖核の存在することが確認できる.しかし銅欠乏の花粉では全くデンプンの入っていない花粉が出てくる.これらの花粉では花粉そのものの大きさも小さく,さらに形も歪である.銅欠乏コムギは水分含有率が高いため,葉身はまっすぐ伸びず,だらりと垂れ下がる.この症状は写真3に示した.健康なコムギの植物体の葉身は光の吸収を良くするために先までよく伸びるのである.ムギを栽培していてこの点をよく注意する必要がある.
銅欠乏の対策としては葉面撒布と硫酸銅の土壌施用がある.葉面散布としては40~50gの硫酸銅を100Lの水に溶かし,10アールに散布すればよい.幼穂形成期まで散布すればその年の銅欠乏は回避できる.ただしこの方法はその年のみの対策である.根本的な対策は土壌に対する硫酸銅の施用しかない.この場合は,10アール当たり硫酸銅を4~8kg必要である.Cuとして1~2kg/10aである.これまでの試験結果では対策後20~30年たっても再発生は見られない.
なお,この試験ではライムギの試験も一緒に行ってみた.そこで見えたことは,ライムギもコムギと同じように銅欠乏の土壌では植物体銅の含有率も低下するにも関わらず,なぜか子実の数量が低下しないことだった.特徴として現れるのは,コムギの場合には銅欠乏になると,鉄の含有率が高まることだ.銅と鉄は化学的に性質が似ているところがあり,そのため銅と似ている鉄を代わりに吸収してしまうのかもしれない.
表1 コムギ出穂期の茎のブリックス糖度(%),上から第1節,最下位は第5節
第1節 第2節 第3節 第4節 第5節 水分(%)
正常 7.6 13.7 18.1 23.1 25.0 68.6
銅欠乏 7.1 7.2 10.3 11.9 10.3 75.7



27. ムギの銅欠乏の話―Ⅱ
さきに土壌中の銅欠乏でムギ類が不稔になる事を述べた.北海道でムギ類に銅欠乏障害のあることを最初に発表したのは昭和44年である.当時とその後の可溶性の銅含有率の測定法に若干の違いがあるので,その後の統一された方法で分析した結果で見るとどのような値になるか見てみよう.
まず生育障害の見られた作物は裸麦(大麦),コムギ,エンバクであった.ライムギの報告はない.これらの生育異常の発生地帯は当時の地名でいうと網走市,女満別町,東藻琴町,端野町,美瑛町であった.いずれも火山性土である(長谷部.水野 1969).そこでエッセイにはふさわしくはないがデータを示してみよう.まず土壌を1000℃近い温度で溶かして全含有率を測定してみた.先にムギ類に異常の見られた地帯の銅全含有率を見ると,一桁の値が出てくるのである.これは火山灰土の平均値の25(mg/kg), 生産力の高い一般に言われる沖積土(土壌分類上は低地土)の平均値の31(mg/kg)から見ても異常に低いことがわかる.一方有効態の銅と言われる0.1N-HCl可溶の銅含有率はどうであろうか.これは必ずしも全含有率とは比例しない.しかしこれまでの試験ではこの値が0.3mg/kg以下ではほぼ間違いなく不稔になる事が明らかになっている.場合によっては0.5mg/kgでも不稔になる場合がある.

このような値はなにも網走管内に限ったことではないのである.これを十勝管内のデータで見ると,火山灰土の60%が0.3(mg/kg)以下なのである.ぎりぎりのところで農業生産をしているといっていいだろう.
参考のために亜鉛の含有率も示した.亜鉛の場合はトウモロコシに欠乏症状が現れる.亜鉛は成長ホルモンと関係するので,トウモロコシの先端の部分に異常が現れる.欠乏の現れる値は現在の所可溶性で2(mg/kg)という数値が出されている.これは火山灰土での話である.ニッケルが異常に高い蛇紋岩質の土壌では3(mg/kg)以下でも異常が現れる.体内のイオンバランスが崩れるためだろう.
ムギ類の銅欠乏の研究をしていて意外なことに気が付いた.コムギの植物体の銅含有率が銅欠乏不稔の基準にはならないのである.オランダのワーゲニンゲン農業大学で世界の研究者にサンプルを送って分析した平均値を見ると,コムギ植物体の平均銅(Cu)含有率は2~3mg/kgであり,北海道での正常なコムギ植物体の銅の含有率と変わらない.それで見ると,植物体中のCuの含有率が0.6mg/kgでも不稔にならないこともあるし,1mg/kg以上でも不稔になる場合がある.
そこでなぜそうなるか他の元素とのバランスを見てみた.そうすると鉄(Fe)の含有率が高い場合に不稔なることがわかってきた.すなわちCuの含有率をFeの含有率で割った値が0.008以下になると不稔になるのである.正常なコムギのCu/Feの値は0.02~0.04の間にある.これは先に示したワーゲニンゲン農業大学の値も同じである.どうも銅欠乏の場合,コムギ類は類似の金属元素である鉄を吸収し,そのために元素の体内バランスが崩れて不稔になるようだ.先の報告でも銅欠乏で不稔にならないライムギの特徴を示した.そしてライムギは銅欠乏になってもコムギのように鉄の吸収が高まることはない.たぶんそれがライムギを銅欠乏条件になっても不稔になり難い特性になっているのだろう.
植物体内のイオンバランスが正常な生育をする上で重要なのはムギ類の銅欠乏の問題だけではない.かつて研究していたマグマの岩石である蛇紋岩は一般の岩石の100倍ものニッケルを含有している.そのためこの岩石の風化土壌ではニッケルの過剰障害が発生する.このような問題もあって,蛇紋岩地帯では不毛の地帯が多い.農耕に用いるとニッケルによる過剰障害が発生する.しかしニッケルの過剰が出にくい植物も存在するのである.これらニッケルに強い植物,あるいは同じ植物でもニッケルの過剰が出ない場合は植物体内の鉄(Fe)とニッケル(Ni)の比,つまりFe/Ni比の高い条件にある場合には障害が出にくい(Mizuno 1968).そしてこのFe/Ni比が5~10以上であれば障害は出ないのである.このように鉄は必須元素とのバランスで多すぎると障害になるが,一方有害元素との関係では多い方がプラスに働くのである.
以上のようにバランス感覚が必要なのはなにも人間の社会だけではないようだ.金(Fe)だけためても必ずしもプラスに働くとは限らないようだ.
28. ニュージーランドの白い花とミツバチ
1999年1月4日にDr. Brooksの誘いで,ニュージーランドに行くことになった.当日,千歳は猛吹雪で,飛行機の出発はずいぶん遅れた.同じ飛行機で成田に行き,アメリカに行く人たちは乗り継ぎ飛行機に間に合わなかったと聞く.わたくしたちは時間があったためにニュージーランド行きに間にあった.当時は直行便がなく,オーストラリアまわりであった.オークランド到着後さらに小型機に乗り継ぎ,北島の南に飛んだ.空港にはブルック博士が日本車で迎えに来てくれた.
2,3日後,南島の北端の町,ネルソン近郊の蛇紋岩地帯を見て歩いた後,北島の南に存在する広大な火山灰地帯でのことである.ここで小さな白い花をつけた植物を見ていた時,博士は「ニュージーランドの植物の花は本来白色である」という.理由は花粉を媒介する昆虫は蛾であるので,蛾の飛来する時間の夜でも見やすいように白いのだという.そういえばニュージーランドで蝶々に会うことはなかったことに気が付いた.
時は流れ,2023年の12月のことである.網走の東京農業大学生物生産学部一期生の教え子から蜂蜜が送られてきた.マヌカという植物の蜜で薬効があるという.少しずつ飲んでいるうちに予想外のことが起きた.長い間化学実験をしてきたためか,ドラフト(排気装置)が不調の時もあったせいか,50歳ころから咳が出るようになった.札幌医大では慢性気管支炎と診断された.病院で薬をもらうがどれもあまり効かなかった.たぶん死ぬまで治らないと思っていた.ところがマヌカハニーを飲んでいるうちに咳が出なくなった.自分にとっては奇跡である.
マヌカハニーは西洋ミツバチで採っているという.日本ミツバチではいろいろな花の蜜をハチが勝手にとってきて巣に運ぶため,とれる蜜はいろいろな花のミックスである.これに対して西洋ミツバチは群全体で特定の花の蜜に限定される.そのため西洋ミツバチでは「アカシアの蜜」,「レンゲの蜜」などと特定の花の蜜が採取できるのである.マヌカハニーもその様にして採取しているのだろう.そこでブルックス博士の言葉を思いだし,マヌカの花の色を調べた.やはり原種は白色花で小さな樹木とのことである.
ミツバチというと遠い昔のことを思い出す.我が家の開拓地には毎年7月になると養蜂家がミツバチの箱を置いていった.7月中旬に咲くシナノキの蜜をとるためであった.シナノキには二種類あってシナノキとオオボダイジュがある.どちらもシナノキ科であるがオオボダイジュの方は葉が大きく,木肌も滑らかであるので区別がつきやすい.北空知ではどちらも7月中旬に淡黄色の花を咲かせる.一斉にたくさん花を咲かせるので,独特の味をするシナノキの蜜もたくさん採れていたのだろう.
私が牧場に働きに出たある日,仔馬がミツバチの箱を蹴飛ばしたという.怒ったミツバチはそのとき近くいにいたヤギの仔に一斉に襲いかかった,その時わたしより7歳年下の弟は窒息の危険を案じながらビニール袋をかぶって必死になって仔ヤギを助けた.結局仔山羊は助からなかったと後で聞いた.
ミツバチについてはもう一つの思い出がある.開拓地に入植した年だから小学校5年生の時だったと思うが,6月の晴れた暑い日にゴウゴウ音がするのでそちらを見ると,たくさんのハチが塊となって飛び,近くの大木にぶら下がった.直径が30~40cmもあったろうか.はじめは何が起きたかわからなかった.父は「分蜂」だと教えてくれた.巣別れだと知った.確かこの日,もう一つの「分蜂」があった.いずれもいったん木の枝にぶら下がった後にどこかに消えていった.このころこの付近に養蜂家はいなかったので,このハチは日本ミツバチではなかったろうか.その後このような分蜂は見たことがない.
近年,世界でミツバチの減少が起こっているといわれる.ミツバチの減少は人類の食料である植物の生産に直結する大きな問題をはらんでいる.原因はどこにあるかはっきりしないが殺虫剤を含む農薬が最も大きな原因だろう.改めてレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出す.その一部に「―それも何年という短い時間ではなく,何千年という時をかけて,生命は環境に適合し,そこに生命と環境のバランスができた.時こそ.かくことのできない構成要素なのだ.それなのにわたくしたちの生きる現代からは,時そのものが消え失せてしまった」と.ニュージーランドの白い花と,昆虫の関係,マヌカハニーをみたとき,そこには想像を超える長い年月によって築かれてきた自然と生命の関係が見えてくるのである.
そう言えば日本においても白い花は珍しくない.夕顔は白い花で,しかも夜になると花を咲かせる.虫を引き寄せるためだろうか
29. 驚いたこと
これまで多くの研究をやってきた.高校,大学を順調に出てきた研究者と異なって,学校教育は事実上中学卒業で終わり,直接農業と関わってきた者にとって研究課題は専門に特化されることはなく,農業に関わる問題には躊躇なく取り組んできた.その中でチッソ分析では歴史も古く,安定した結果が得られるため,世界的に使われてきたのがケルダール分解法である.この方法はその知名度といい,使われる頻度といいトップクラスの分析法である.自分としては使いづらさと現代の反公害からいとも簡単に改良法が得られたが,その報告論文はだれも読まないだろうとの予想をしていた.そのため報告後40年もの間その社会的影響を知らずに過ごした.
植物体のチッソの定量は食料や飼料中チッソの定量のためにどうしても必要な実験法である.これは特にタンパク質の定量のために必要な実験でもある.このため,ケルダール実験法は1883年に開発された実験法で,安定した定量法で世界的にこの方法が使われてきた.たとえば1グラムの植物体の試料を専用の分解ビンに入れる,これに硫酸銅と硫酸カリウムの混合した分解促進剤を加える.そうしてこれに濃硫酸20mlを加える.これを分解ビン専用のヒーターにかけ,2~3時間加熱する.
この方法で分解されたサンプルは分解促進剤が入っているため,チッソの定量にしか使えない.もう一つの問題は分解のための長時間の監視である.この長時間の監視のためにそれぞれの研究機関では臨時の職員を雇っているのが一般的であった.さらにチッソを定量した後の廃液は硫酸銅などの重金属が入っているため一般の洗浄水のようにナガシから流すわけにはいかなかった.公害問題が社会の大きな問題となる昭和40年代以前はそのまま流す研究機関が多かっただろう.しかし1970年代以降はこのような方法は許されなくなった.
著者は研究の主体が重金属対策であったため,チッソ定量とは関係のない仕事であったが,公害問題に従事する段階で,ケルダール分解も必要になってきた.そこで問題を感じたのは効率の悪い分解法と,多量にでる重金属を含んだ廃液だった.廃液は業者に出すことになっていたが,限られた予算と日に日にたまる廃液であった.これを何とかしなくてはならないと感じた.実験法を従来の方法に頼らず,自分で検討することは重金属対策研究を始めた当初から習慣付いていた.
チッソ以外の他の元素定量のための試料の分解にも問題があった.まず強烈な多量の過塩素酸と硝酸が使われていた.そのため過塩素酸ガスと多量の亜硝酸ガスが大学や研究所の実験室から大気中に放出されていた.大気汚染である.特にイタイイタイ病のカドミウム分析定量では玄米中の含有率が低いために,1点当たりのサンプルが乾物で1グラムでなく10グラムを必要とした.1研究室当たりの硝酸使用量が年間20リットルであったのが,公害問題が出てからはその10倍使用量となった.
新しく備え付けられたドラフト(排ガス対策実験装置)が1年もたたないうちに屋上でガタガタいうので見に行くと,鉄の土台が溶けていたのである.公害対策の実験室が大気汚染の原因になっていたのである.このことがあってから,ケルダール分解法も他の分解法も何とかしなくてはならないと考えた.チッソの定量では窒素化合物である硝酸が使えないのである.
どうすれば双方のための分解法を一つの実験で片付けられるか考えた.そこで思いついたのが過酸化水素であった.これまで過酸化水素をサンプルの分解に使う例はなかった.しかし過酸化水素は過塩素酸や硝酸のような酸ではないが強力な酸化剤である.一般に傷などに使うオキシフルは過酸化水素が2%である.しかし実験室では土壌中の硫化カドミウムを酸化するために35%の過酸化水素が使われていた.これが幸いしたのである.過酸化水素は酸素と放出すると後は水になるだけである.わたしはこれに眼を付けた.これなら公害も出ないだろうと考えに至った.それで検討したところ硫酸はケルダール分解時の硫酸の使用量が半分でよいこともわかった.しかも分解時間は20~30分と大幅に短縮されることがわかった.発案から実験で得たデータを論文として提出するまでに1週間ほどで完了した.
この分解法の特徴は主要な排出ガスは水蒸気であり,従来のケルダール分解法より亜硫酸ガスの排出が少ないこと,もちろん過塩素酸や亜硝酸ガスの排出はゼロである.最後に過酸化水素を完全に排除するためにいくらか亜硫酸ガスが出る程度である.さらに大きな特徴は実験が早いことである.またチッソ分析と他の成分分析のための実験が1回の分解で完了することである.わずか2ページ半の論文の投稿は日本土壌肥料学会にした.この学会では分析法は軽く見られているためか,分析法はノートにしかならない.誰も読まないだろうと思ったが取りあえず投稿だけはした.ノートは1980年に発表された.
この短報がとんでもないことになっていることがわかったのは40年以上も過ぎてからである.自分ではこの実験法で実験を続けてきたが,自分で開発した技術でもあり,文献を探して実験をすることは無かった.たまたま2023年の暮れ,日本の科学論文の引用が世界の4位から12位に低下したとのニュースが入った.そこで土壌肥料学会誌がどうなっているかインターネットで調べたところ,上位5位までの中にこの短報がのっているではないか.だれも読まない論文と考えていたこともあり,何の間違いかと思った.このことは三重大の息子も知っていたし,農試時代の仲間に尋ねたところ,今はこの方法が使われているとのこと.そのためアルバイトの人件費が必要なくなったとのことであった.
農試に入ってから気になっていたことは多くの研究者は大学の新卒者ばかりでなく,ベテランでも実験に当たり徹底的に実験法を教科書通りにやることである.実験法は数が多いので,それぞれ必要なことを書いてあるわけだが,何所か無駄なところがないか,あるいはその実験法で良いか検討する思考も必要であろう.優秀な大学を出てきた人ほど教科書に忠実過ぎるように感じるのである.実験法がそのままでよいか検討する余裕も研究には必要ではなかろうか.
30.山火事
昭和21年の小学校4年生の時と記憶している.現在の深川市となっている旧音江村の村有地のカラ松の伐採地が開拓の入植地であった.農業などしたことが無い父母がそこで山火事を起こしたことがある.晴れた風の強い5月10日であった.笹藪に火を付けたところ火は笹藪の枯れ葉を走るように広がっていったという.最初はササの下を走る火がその後上の葉を燃やしていったという.土地が道路に囲まれていたこともあって3ヘクタールほど燃やして収まった.素人とはいえずいぶん危険なことをしたものである.
その後も近郊の山でチシマササ地帯の山火事では,ササの茎の破裂する音が大きく,かなり離れていてもその破裂音で山火事の恐ろしさが伝わってくる.
去年も今年も世界中が高温と干ばつで,ヨーロッパでもアメリカ大陸でもオーストラリアでも大規模な山火事が発生し,山林の被害だけでなく,人畜人家の膨大な被害が出ているという.カナダのニューファンドランドに行ったとき,山火事で焼けた森林を見せてもらった.ニューファンドランドでは地下の岩盤が近いためか直径が10〜20cm程度のあまり太くない針葉樹の焼け跡が何十キロにもわたって消失した森林を見る機会があった.そのためこの近くの住民は被災地から避難したとのことであった.カナダではササを見ることは無かったが,森林は殆どが針葉樹で松ヤニを含むためきわめて燃えやすい.
近年,タイガと呼ばれるシベリヤでも大規模な山火事があり,日本の面積の2倍も焼けたと云われる.思い返すと昭和31年,北海道は干ばつで冷害であった.それまで旱魃年には冷害がないと言われていたが,それは嘘であった.干ばつで牧場の草は伸びず,石狩川は本流を歩いて渡れるほど減水した.太陽はいつも笠をかぶったように輪をかぶり,雨が降らなくても弱い光の毎日だった. 当時,ソ連の内情は伝えられることは無かったので,何が起きているか判らなかった.後年,友人が調べたところ,この年はシベリヤの山火事が続いていたという.2,000年代に入ってからも4月と5月に似たような太陽になったが,6月に入る前にそれは解消し冷害には至らなかった.このときはシベリヤの森林火災が報道され,山火事の収まったこともニュースで判った.このように針葉樹の山火事は恐ろしいものがある.
1993年,シヤルトルからサンフランシスコに向かう飛行機の窓から覗いていると,カリフォルニア州に入ると,砂漠のような大地のあちこちから煙が出ていた.はじめは火山かな?と思っていたが,そのあたりに火山はなく,山火事であることが判った.
そういえば西オーストラリア,カリフォルニアの砂漠にも耐火植物が存在していた.カリフォルニアの砂漠では,松の種類で松かさの中の種子が山火事に遭遇しないと種子が出ないという.また,西オーストラリアでは大人のコブシほどの大きさの種子の入った子実を付け火災にあい,火が消えると中から種子が飛び出すという.その子実は堅く,彫刻などをしてお土産に売っていた.大昔から山火事の多いところではその地帯に棲息する生物も自衛しているのかもしれない.
日本国以内でも最近は山火事が多発している.消化もままならず,鎮火するまで何日もかかっている.これらのヘリコプターによる消火に当たって,疑問に思う事がある.消化のための水の散布を火炎地帯のみに散布していることだ.これでは火勢の強い炎は抑制されるが残った火で新しい地域に拡大していくのは見え据えている.どうすればよいか,考えられるのはこれから燃え広がっていく方向に散布する方が効果的ではないかということである.確証は持てないが試してみる価値はあるのではと灰色の脳細胞で考える次第である.(続く)