水野直治先生 エッセー集 {2025年} 31~40
Date:2026.02.09
31. 魚が空から降ってきた
エッセイ集を読んでいたら「カエルが空から降ってくる」という文章に出あった.それは映画「マグノリア」の一シーンだという.真面目な人,あるいは論理的な人はそんな馬鹿なことがあるものかと云うだろうと書いている.そしてそのような論理的な人には,詩は理解できない人だともいう(片手の音 p274, 05).つまり生真面目な人は夢想もできず,空想を夢見る詩は理解できない人だというのだ.このエッセイを書いた作家はカエルが空から降ってくるなど論理的にはあり得ないことで,降ってくると言うのは信ずることに基づいた信仰のようなものと記している.つまりこのエッセイの作家もまたまったくカエルが空から降ってくるということを信じていないのである.
私は小学生の時,空から魚が2, 3匹降ってきたのに出会ったことがある.時々石狩川の川面から立ち上る竜巻を見ていたので,竜巻で空中に巻き上げられた魚が降ってきたのだろうと思って別に不思議とも思わなかった.その時は竜巻を見なかったが.何処かで竜巻があって,そのようなことが起こったことは容易に想像がついた.別に自分が詩を理解することに長けていたとは思ったことがない.むしろ文学に弱いことは自覚していた.
それと同じにカエルだって竜巻がカエルの多い池などの上を通過したら,カエルも空に巻き上げられることはあるだろう.アメリカのように巨大な竜巻が頻繁にあるところではなおさらである.自然界のさまざまな現象を見ていない人が勝手に人をけなすのにこのような言葉を使うのは如何なものだろうか.もう少しユーモアを持って見てくれればそのような問題は生じないであろう.
自然界にはまだまだ未解明で,不思議な現象が沢山あることに我々はよく出会うのである.そのことを多くの子供達に知ってもらうのと,その原因を解明するのもまた研究者の使命でもある.解明してしまえばなぜこんな単純なことが1世紀もわからなかったのかとむしろそんな問題にも出会うことがある.自然科学のことは論理的であってもあまり常識にこだわって考えな過ぎないことである.それが科学の発展には重要なことと考えている.
32. 天山北路の峠を走る
2000年9月8〜11日,中国の新疆ウイグルに行ったことがある.以前,大学の研究室に新疆農業大学の助教授が留学してきたことがあり,わが研究室に配属になった.その伝手で訪ねる機会を得た.それで終わり頃に天山北路に行くことになった.過去の中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの重要な道路であった.車は延々と川辺の山道を登っていった.
麓の気温は30℃にもなる高温であったが,山道を登るに従い涼しくなっていった.やがて車窓からモレーン(氷河が作った岩石や砂利の堆積層)が見えてきた.標高3000m付近で車を止め,同行した地質屋の妹の旦那が道端の石を拾って叩いていたが,やがて息苦しいと言い出した.酸素欠乏である.3000m付近の酸素分圧は平地の70%程度と言われる.高地訓練をしていない者ではそれでも呼吸困難になるらしい.
車はさらに500mほど高地の峠に達した.周りのあちこちに雪が見られた.そこで3000m標高で呼吸に影響が無かった自分が峠道を100mほど走ってみた.それでもまったく酸素減少の影響を感じることが無かった.同行した地質屋は妹の旦那と同じ年配の地質屋の同僚であったが,二人とも酸欠を感じていた.何が違うのか考えてみた.自分は当時64歳,特に体格が良いわけでもない.ただし長い間水泳をやってきた.クロールの泳ぎでは一回一回呼吸を止めては吐き,空気を吸っては止め,そしては吐きの繰り返しである.絶えず酸欠の条件に身体がある.これで酸欠の条件に身体が慣らされていたのかもしれない.
話は変わるがオリンピックの選手がよく外国で高地訓練をするという.このことは酸欠に慣らす効果があるのだろう.陸上ではマラソン競技選手などは酸素欠乏に慣らす効果があるのかもしれない.これらの効果を自分が天山北路で確認するとは思いもしなかった.
シルクロードで中国に入るラクダの商隊は何日かけてこの峠のルートを超えたのだろう.今より道路も悪く大変だったろう.途中,ラクダや馬が食べられる草は無いに等しい.少なくとも超えるのに3日はかかったと思われる.麓に近い地帯は膨大な砂利の供給地であった.日本国内では,ビルの建築などでは良質な砂利の採掘が困難になっている.しかしここでは無尽蔵である.それに首都ウルムチからこの天山北路の登り口までの砂漠地帯には風力発電の風車がずいぶん立ち並んでいた.砂漠だけに風には不足がないだろう.古代の隊商の行動を想像しながらの旅行きであった.二度と行くことのない旅であった.
33. カイコ
子供の時カイコを飼ったことがある.昭和22年,開拓地に家を立てるため大工の棟梁だった70歳を超えた祖父と祖母が天童から来道してくれた.その頃はまだ養蚕をしている方が少しはいた.そこで生きた繭を何個かもらっていた.それから何個からの繭から蛾が出てきて紙に産卵をした.その卵が5月のはじめに孵化してしまった.北海道の5月の初めはまだ寒く,桑の葉はまだ出ていなかった.慌てたがとりあえず膨らみかけていた桑の木の芽を採ってきて,芽の表皮をむき葉になる部分を幼いカイコに与えてしのいだ.
カイコはやがて大きくなり繭を作った.祖母はその繭を煮て生糸を取ってくれた.生糸は何も女性の靴下のみに使うのではなかった.当時,重要だったのは布団を作る時真綿の材料として必要だったのである.今,布団を自宅で作る家庭はほとんど無い.綿入れの布団もなくなり,羽毛入り布団に変わっているので,布団の作り方の知っている方も少ないと思う.そこでそれを簡単に説明しよう.綿入れ布団は長年使うと,綿が固まるので,それを取り出し,綿の打ち直しをする.綿の打ち直しをする業者はどこにでもあって,きれいな新しい綿になって戻って来る.
布団を作るときは,布団の外側の布と綿を密着させなければならない.そうでないと綿が布からズレ固まってしまうからだ.そこで生糸から作った真綿を布にまんべんなく伸ばし,そこに綿を置くのである.すなわち綿は真綿,布の順位に包まれ,真綿は接着剤の役目を果たす.子供たちは母の布団作りを見て育ったと言えよう.
ちなみに,養蚕はいつから日本に入いってきたのだろうか.調べてみると中国では5000年以上も前から始まっていて,日本に入ってきたのは弥生期と言われるから,ほぼ3000~4000年ほど前からのようだ.それが明治期になると,外貨獲得のため養蚕が奨励され,1906年には中国を追い越し,世界最大の生糸輸出国になっている.
中国とヨーロッパを結んだシルクロードは紀元前2世紀から15世紀まで続いたといわれる.したがって,シルクロードが使われていた以前に日本国内の生糸生産は行われていたことになる.中国はあの険しい山道のシルクロードを通じての重要な輸出品目であった生糸を守るため,カイコの流出を厳しく制限していた.しかし生糸がほしいヨーロッパはこの規制の網を食いくぐり,ヨーロッパでも養蚕を始めた.フランスでの養蚕時期は13世紀からと言われる.その後,イギリス,ドイツ,スイス,オランダでも養蚕を始めたが,これらの地域では風土が養蚕に適しておらず衰退していったといわれる.フランスでは南フランスで養蚕が盛んになるが,19世紀に入ってカイコの多量死が発生した.
ここで立ち上がったのがあのルイ・パスツールである.顕微鏡でカイコの微粒子病と軟化病の病原体を発見し,予防法を考案する.この研究は尊敬する恩師のジャン・バテスト・デュマ教授の要請によるものであったが,それに見事に答えたという.また,カイコについては無知であったパスツールに助力したのはあの「昆虫記」で有名なファーブルであった.
カイコにはこのように世界にまたがる長い歴史がある.著者が札幌市琴似町の道立農業試験場に転勤してきた昭和38年のとき,農試にはまだ養蚕課長が存在していた.しかしカイコはどこにも見当たらず.養蚕の研究をしているとは思えなかった.札幌駅と琴似駅の間には桑園があるが,ここは養蚕の研究に使われた桑園であったと聞く.しかしこの時期にはすでに桑の木は見当たらなかった.道立農試は昭和42年に長沼町北長沼に移転する.このときはすでに養蚕課はない.
しかし私はいつか養蚕が復興するかもしれないという淡い夢を持っている.これは生糸を生産することではなく,パスツールがカイコの病気の研究で新しい医学の道を切り開いたように,科学的研究で必要になるのではという夢である.
34. 黒千石
黒千石とは大豆の仲間で,黒豆の小粒の豆である.大きさは小豆くらいで丸い.馬が農家にいる時,黒千石は馬の餌でどこでも栽培されていた.当時は黒千石の他に,茶小粒と言う品種もあって,これも同様に栽培されていた.多分,茶小粒の方が多かったと記憶している.茶小粒も小豆ほどの大きさの大豆である.どちらも草丈は1メートル以上になる大豆であった.
黒千石が店頭に並ぶようになった. 当時はどちらも家畜の餌としてしか使われていなかった.それが今(2026)30年ほど前に,大学の教員が黒千石を研究しているのを眼にするようになった.当時は昔のイメージがあって,なぜ馬の餌の研究をしていたのか不思議に思っていた.当時の研究者にその研究の目的を聞いてみると,ご飯などに混ぜて食べられないか研究していたという.本来大豆なので蛋白質含有率が高い.その点では小豆より優れている.
どの程度収穫できるか調べてみた.北海道では北竜町で随分栽培されているとかで,北竜町の役場の方に尋ねた.産業課の川上さんという方が電話で応対してくれた.それによると栽培面積は498.9 haで,8〜9戸で栽培しているという.反収は178 kg/10aというから,総量は88,804.2 kgとなる.88.8トンである.因みに国産大豆の反収は,2025年4月の調べで164 kg/10aであった.普通大豆の反収より多いことになる.蛋白質は大豆だから35%くらい.小豆の20%より随分高い.
黒千石の使用法は小豆のように使えるという.元は馬の飼料だったが,もっと普及するといいなと思う.これまで考えもしなかった.
35. 荻野吟子のこと
荻野吟子は日本における初の国家試験合格の資格を持った女性医師である.荻野吟子の前に医師となった女性は存在していた.シーボルトの忘れ形見の楠見イネである.当時の「医師開業試験」は新たに開業を目指す人が対象のため,すでに長期間開業していたイネは対象外だった.したがって国家試験を受けた女性医師は荻野吟子が第1号である.男性のみが医師の時代,医学校に入るのも苦労をして入学し,1879年に私立医科学校を首席で卒業したという.その後も国家試験を受けるのも前例がないとの理由から東京府や埼玉県の医師国家試験の受験は拒否された.しかしその一方で有力者の協力者もあって,1884に国家試験に合格し,34歳で公許女医となった.
なぜ荻野吟子に興味を持ったかというと,1897年に瀬棚の会津町(現在の本町)で診療所を開業からである.今(2025)から128年も前の瀬棚はどうであったかわからないが,このような歴史的人物が北海道の片隅で開業した事自体驚きであった.
60年前,私が農業試験場に転勤してきて間もないころ,道立の農業試験場は各地の開拓地に現地試験圃場を持っていた.それで瀬棚町にも再三訪ねていた.瀬棚は,当時は北前船が行き来した江差に近く,また昆布やニシンその他の海産物の取引で当時の人口は3,000人の街だったらしい.それにしてもなぜあれほど苦労して医師になったのに日清戦争の後の明治30年に瀬棚まで来たのか不思議だった.
吟子は1868年に稲村貫一郎と結婚するが,彼に淋病を移され,1870年には離婚したという.病院では男性医師の診断で屈辱的であったという.それで女性のための医者が必要と考え,医者の道を選んだとのことであった.
1886年にキリスト教の洗礼を受けており,日本キリスト教婦人矯風会に参加している.そしてそれから40歳の4年後の1890年に16歳年下で新島襄の洗礼を受けた志方之善と再婚する.之善は1892年に利別原野(現在の今金)の開拓にキリスト教の理想郷を夢見て渡った.吟子は之善の後を追って1894年に今金にわたり,その後1897年に瀬棚に診療所を開業する.之善は1903年に同志社大学に再入学するが,吟子は1908年まで瀬棚に過ごし,その後帰京して開業する.1913年に肋膜炎にかかり,脳溢血で死去したという.満62歳であった.
瀬棚町には酪農短大で私の次の年次の卒業生が二人も瀬棚町に行き,酪農を営んでいた.また彼らはキリスト教の布教にも熱心であった.おそらく荻野吟子以来の雰囲気が残っていたのだろう.瀬棚には荻野吟子の顕彰碑が存在する.
インターネットから:
日本初の公許女医第一号となった『荻野吟子』は、理想郷の建設を夢見て移住した夫の志方之善の後を追って北海道に移住。その後の明治30(1897)年に瀬棚村(現在の瀬棚区本町)で産科・小児科荻野医院を開業。開拓移民の医療に従事するとともに淑徳婦人会を結成し、病気や怪我、災害時の対処方法を教えたとされる。旧瀬棚村の医療・文化・教育面につくした輝かしい功績を後世に永く伝える為、せたな町ゆかりの偉人として記念碑や資料館を町内3か所に設置。昭和51(1976)年に吟子が瀬棚で詠んだ詩と「荻野吟子開業の地」標柱を建立、昭和42(1968)年北海道開道100年を記念して女史の顕彰碑を建立、その後顕彰碑は平成12(2000)年6月に移設され「荻野吟子公園」として整備。生涯学習センターでは資料展示室を設け、吟子が日常生活で使用した遺品や貴重な資料が展示されている。現在吟子の名は、地酒の銘柄「吟子物語」となり、また、せたな町立国保病院瀬棚診療所は「荻野吟子記念せたな町医療センター」として町民に親しまれている。
36. 抜海駅
今年(2025)最北の駅が消えた.抜海駅の名は牧夫をやっていた時を思い出させる.働いていた深川の牧場では面積があまり広くなかったこともあって,若牛を広大な面積のある抜海の牧場に夏期間預けていた.雪が降る近くになると帰ってきた若牛は見違えるほど逞しくなっていた.
これらの若牛を深川の牧場に放牧すると,仲間を引き連れて率先して囲いを破るのだ.これにはいささか手をやいた.しかし広い牧場に一夏放牧されるとこれほどたくましくなるのかと感心していた.
今から20年ほど前にこの近くを通ったことがある.友人の東大と北大の名誉教授を車に乗せて,道北から礼文島に行ったときである.帰り道を稚内から海岸を走る道道21号を天塩に向かっていると,左側は広大な牧場が広がっていた.右側の海の中には利尻岳がそびえ立っていた.「あの牛はここをかけまわってりたのだな」と想像をしながらの旅であった.今は遠い昔の話である.このとき一緒だった友人の一人も今はなく,あの海岸線を走ることも,もうないかもしれない.
礼文島には研究用のタカネグンバイ採取のために三回通ったが,いずれも夜であったので,日中走ったのは友人と走った時であった.途中,対向車も同じ方向の車にもまったく会わなかった.サロベツ原野に入る前,稚内から20kmほどのところに抜海がある.嗚呼ここがあのきかない若牛が一夏過ごした抜海かと思いながら通り過ぎた.
稚内から40kmほど来たところがサロベツ原野である.ここは一度開発するため,開発局が農場?の試験をしていたところである.しかし通ったときはすでにサロベツ原野をそのまま残すことに決まって農場はなく,農場のあったところの排水路にかけられた木造の橋は両側が泥炭地のために沈んで,太鼓橋の様になっていた.酪農家もどんどん減っている時代になり,サロベツ原野が農地化されなくてよかっと思う.やがて天塩町に入り,国道150号線を南下し,帰路についた.
37. 水泳教室
夏になるとあちこちで水による事故が増える.これは子供だけでなく大人も同じである.身を守る術を知らないためであろう.小学生の水泳教室を30年続けてきた.7月下旬から8月上旬における2週間だけの期間で,6日間の教室である.ほとんど泳げなかった子供達が背泳ぎでもクロールでも一応泳げるようになるのをみていると楽しくなる.ところで水泳の教育が身を助ける泳ぎから競技用に換わったのはいつからだろうか.水泳の教育がどこもクロールの泳ぎから始めるが,これには問題を感じていた.これまで水に親しんだことのない子供まで水に顔を付けるのからはじめるのは問題があるように思われるのである.水に顔をつけるだけで恐怖を感じる子供がいるからだ.そこでわたくしは途中から身を守る水泳から始めるようになった.
その方法とはまず身体を水に浮かべることから教えるのである.水に浮く方法である.腕を伸ばし,あるいは腕を広げ,息を吸い呼吸を止めて頭を耳まで水に浸けて,お腹もお尻も水平にすると人は水に浮くのである.はじめは水を怖がって,頭を上げ,腰を折ってお尻を下げる子がいるが,これでは水に沈む.その様な子にも少し手を貸してやると間もなく水に旨く浮くようになる.その後に足をばたつかせ,水に浮いて前進することを覚えさせる.これが出来ると,もし子供が川や海になどの水に落ちても身を守ることが出来る.
このように水に浮くことができるようになると背泳ぎはすぐ出来るようになる.わたくしの経験では小学校低学年で,1時間ほどの最初の日に背泳ぎまで出来るようになる.上を向いて水に浮くことは水に対する恐怖を著しく軽減するようだ.水に対する恐怖心をなくすと,顔を水に浸けて泳ぐのも容易になる.クロールの指導も容易になるのである.
近年,1988ソウルオリンピックの背泳ぎで金メタルをとった鈴木大地スポーツ庁初代長官とオリンピック委員会強化スタッフの藤本秀樹の二人が編集の「水泳大全」を入手した.これによると泳ぐ場所が海や川からプールに移り,安全意識が薄れていったことが書かれている.しかし水の事故の多発により,安全スポーツをめざすことが書かれている.そのために日本泳法や浮き身や立ち泳ぎ,横泳ぎなどが最初に書かれている.ようやく安全教育に転換してきたかと感じる次第である.
最近,栗山から近い北広島市の小学校の水泳授業で事故が起きた.36名の生徒を3人の先生で分けて指導したという.一人12人の生徒であるから,我々の水泳教室と変わりがない.事故を起こしたグループは二人をコースで泳がしていたという.そのうちの一人が途中で沈み,それを先生ではなく生徒が見つけ,先生に知らせた.先生は何をしていたか.見ていなかったのである.水深は95cmというからそれほど深くはない.5年生では背の立つ深さである.しかし水の中で立つのは慣れないと容易でないことを知るべきである.水の中で立つコツは最初に教えるべきである.出来ない先生もいるかもしれない.
我々が指導する場合は一番深い所に立って生徒を見るようにしている.水泳指導では生徒から目を離せないのである.
38. 教育
イギリスの哲人のトーマス・カーライルの言葉に「経験は最良の教師である.ただし月謝は高い」とある.辛い,苦しい経験によって人は成長するという.苦痛を伴う経験はなるべく若い時期にあうといい.よく「苦労は若い時に買ってでもせよ」といっていた.
2025年の7月15日の朝日新聞に数学の教育者であった桜美林大学の名誉教授の芳沢光雄氏が大学で数学教育の有無を論じていた.教授によると学生は暗記教育の犠牲者であるとし,大学生も数学の教育は暗記中心の教育であったとのこと.たとえば10%の食塩水を1千グラム作るのに必要な食塩と水の質量を求める問題に対する回答は中学3年生での正解率は52%であったという.なぜそうなのか,それは分数などの基本が理解されていないのだという.そこで芳沢教授は大学で四則演算を夜間に「就活の算数」としてボランテア授業をし,ずいぶん好評だったという.
わたくしも大学で栽培学を教えているとき,一般の農業でコメの収量予測計算をするための方法として学生たちに1m2あたりの株数,1株あたり穂数,1穂当たりの籾数,千粒重を示し,10アールの玄米収量を計算させたことがある.しかし結果は「10a当たり10グラム単位とか0.Xgとか,驚くべき回答が大半であった.それこそ四則演算がまったくできていないのである.
株数 = 22/ 1m2, 穂数/株=25, 籾数=60粒,千粒重=22g,登熟率=80%
とすると,計算式は
22 x 25 x 60 x 22 x 0.8 = 580,800g = 580.8 kg/1000m2 =10a
である.いたって単純に答えはでてくる.別に微分や積分の計算をしているのではない.単純な計算である.それができないのである.もう一つは常識的に単位面積当たりのそれぞれの作物の収穫量が知らないのである.
問題はこのような知識のあるなしではなく,それぞれの問題解決に対する考え方ができないことである.桜美林大学の芳沢名誉教授が指摘しているように,数学までが暗記教育になっていて,自分で問題解決法を考え出す力がないことが大きな問題になっていることである.
自分は高校に行くことがなく,独学だったために数学などは公式も知ることがなく,同じ問題を何時間も,あるいは何日も取り組まなくてはならない経験をした.そして高校に通える人たちを羨ましく思ったものである.しかしいま思うとこの自分で考え悪戦苦闘したもとがその後の研究生活に大きく影響したといえるだろう.これはトーマス・カーライルの「経験は最良の教師である.ただし月謝は高い」の言葉通りである.月謝は独学の苦労ばかりではない.学歴がないとみなされて社会的に身分が低く扱われることも入ってくる.このことは実際にそこに身をおいた者しか理解できないかもしれない.
もう一つの問題は「優等生」の問題である.近年ある友人と話をしたことである.ある有名な大学卒業生がそれよりも入学が易しいと思われる大学卒業生よりノーベル賞などの受賞者が少ないことであった.これに対して友人は「優等生」問題を持ち出した.レベルの高い大学に入るには高い知識レベルが必要である.これは優等生の特権である.要するに教えられること,あるいは知識として出回っていることを覚え込む能力がそれである.覚え込むには余計なことを考え,あるいは疑問をもつ者には不利である.優等生は早く言うと覚えなくてはならないことに疑問を持たず覚え込む能力でもあると.
39. 物を量るー重量測定からシミの化学と光分析へ
たまたま水銀中毒の治療にキレート剤を用いるという記事にであった.多くの若い化学研究者にはあまり知られていない言葉かもしれない.私が農業試験場に入ったときは農業に重要なマグネシウムやカルシウムの分析定量はこのキレート分析の全盛期であった.キレートとはハサミという意味で,マグネシウムイオン(Mg2+),カルシウムイオン(Ca2+)を蟹のハサミで挟むようにEDTA(ethylene di amine tetra-acetic acid)と結合する.これらのイオン全部とEDTAが結合すると溶液の色が変わる試薬を入れておくと,入れたEDTAの量からこれらのイオンの濃度がわかる仕組みである.もちろんMg2+,Ca2+に使う指示薬は異なる.困ったことは試薬変化の判別が日中の太陽光でしかわからないことであった.この分析法は原子吸光光度計が出てくるまで続いた.
EDTAが当時使われていたのは鉛中毒患者の鉛排出であったと記憶している.金属イオンを挟んで水に溶けやすくなり,排出できる性質を利用したものである.それを水銀中毒患者の水銀排出に応用するという.ただ水銀中毒患者にすべて効果があるわけではなく,またキレート剤は水銀にのみ反応するのではなく,体内で重要な鉄やマグネシウム,カルシウムとも結合して排出することを忘れてはならない.
はて,このエッセイの目的とははずれてしまったようだ.物を量る方法はずいぶん発達してきた.最初は重量をはかって識別していたものが,その中に入っている成分を量るようになった.農作物や土壌に含まれるカリウムや石灰,苦土(マグネシウム)も溶液から沈殿させて回収し,その重さから含有率を求めていた.重量法である.しかしこれらがすべて沈殿して回収されるわけではないので,これらの値はかなりいい加減だったことがわかる.それに比べてキレート法は正確であった.
一方,ナトリウムやカリウムは炎光法が用いられた.炎光法とは街灯で見られるあの赤黄色のランプとか赤桃色のランプの光である.赤黄色のランプはナトリウムランプであり,赤桃色ランプはカリウムのランプである.実は金属元素を加熱すると,その金属元素によって独特の光り方をすることが19世紀の中頃にドイツのハイデルベルグ大学のロベルト・ブンゼンとグスタフ・キルヒホフによって明らかにされていた.あの理科教室にあったブンゼンバーナのブンゼンである.元素がそれぞれ加熱すると特有の光を出すことは太陽の光から見出していた.これを応用したのが光分析である炎光法である.これが光分析の出発点である.これらの炎光法は発光した光の強さから元素を量るのであるが,元素が光るまで多量の光エネルギーを吸収する.その吸収するエネルギーで存在する元素を測定するのが原子吸光光度法である.
40.農学と分析化学と
分析化学の問題
農学,特に土壌化学や植物生理学は分析化学の発達と密接に関係がある.しかしながら農学の方は分析化学をあまり重要項目として扱ってこなかったように感じる.これらについていくつか問題点を提供してみたい.
2)権威者に媚びるな
1979年の時である.コメ余りから水田の畑転換がここ数年進んできた.水田から畑に転換された土地には当初大豆の栽培もされたが,マンガンなどの過剰障害などを発生することから,栽培が容易で,稲作で使用する稲刈り機も併用できるムギの栽培が拡大されていった.その中でムギの不稔が方々で発生しだした.その一つが三笠市の丘陵地であった.何十ヘクタールものコムギが不稔になったのである.そこでそのことを上司に報告し,現地視察に行く事となった.ただし上司の出身大学の有名な教授も同行することが条件だった.その大学教授も現地に到着し不稔のコムギを見ることとなった.教授は不稔コムギの根本を探り,出てきた言葉は「これは新種の病害だ」と発言した.以前に銅欠乏コムギを扱ったことのある著者には意外な言葉であった.現地には上司もいて同じ言葉を聞いていた.取りあえずその場は何事もなく過ごした.上司も特になにかしなさいとの指示はなかった.
収まらないのはこちらである.問題をもちこんで来た農協の技術者と示し合わせて,分析用のサンプルを採取し,翌年にかけての試験圃を確保した.土壌の分析の結果は案の定銅欠乏発生のレベルの値であった.そこで秋には試験区の播種を行い,翌年の結果待ちとした.
一方では30箇所におよぶ現地調査も行った.これには不稔発生地と正常な稔りのあった箇所を分けて,その実態調査である.その結果,結実したコムギ地上部の分析値では,西欧コムギ体の乾物当たりの銅の含有率は2.9 mg/kgであったのに対し,不稔のコムギ体では0.75 mg/kgとなり,正常コムギの1/4近い低レベルの銅含有率であった.この結果からも銅欠乏による不稔であることは明らかであった.
また,土壌の希塩酸可溶性銅である0.1 N HCl-Cuの含有率は 正常区で1〜6ppmであったのに対して,不稔区では0.1〜0.2ppmであった.ようするに不稔土壌は可溶性銅が0.2 ppm(mg/kgと同じ)以下で発生し,これは過去に網走地方の銅欠乏土嚢の分析結果と同じであった.あとは栽培試験を待つばかりである.
栽培試験では硫酸銅無施用区の対照区と硫酸銅で2kg/10a区と4kg/10a区を設けた.硫酸銅はCuとして25%含むので,Cuとしてはそれぞれ0.5kg/10a, 1,0kg/10aの処理であった.結果は10a当たりのコムギの収量は対照区で 30kg/10a, Cu 2kg区で405kg/10a, Cu 4kg区で 530kg/10aであった.すなわち硫酸銅による施用では2kg/10aではやや低く,4kg/10aで十分であると思われた.跡地土壌の分析では,それぞれ 0.1 N HCl-Cuは 0.13, 0.50, 0.75ppmであった.
以上の結果を翌年,上司に報告したところ,意外な言葉が返っていた.「それは困ったな」と.恩師の指摘と異なったからである.しかし自然科学においては実験調査の結果を待つべきで,たとえ上司や恩師であっても,経験もないのにあたかも正解であるように指示するのは控えるべきであろう.(続く)