水野直治先生 エッセー集 {2025年} 41~45
Date:2026.02.09
41. 微量元素
銅についてはすでに述べた.微量元素は時には多量元素以上に生物に対して影響を与える場合が多い.そこでここではいくつかの元素について考えよう.以前に日髙の軽種馬牧場地帯で土壌と牧草の微量元素を調べたことがある.また,アメリカには家畜の飼養基準がある.それをここに示そう.これを見てもほとんどの微量元素が基準値に達しいていないことがわかる.日髙地帯は蛇紋岩地帯が近くを走っているので,コバルトの含有率は高く,これは基準値に達している.
*ここで使われている単位はppmである.これは百万分の1のことであるが,現在はこれが mg/kg に変わった.これは同じであるが,古い文献ではppmが使われている.
モリブデン:
モリブデンと云えば一般の人はモリブデン鋼の包丁を思い浮かべるかもしれない.ステンレス鋼にモリブデンを加えた鉄鉱は錆びにくく耐久性があり,切れ味が維持される優れた包丁のイメージだろう.ニッケルが必須栄養素になる前には,モリブデンは植物にとってもっとも少量であるが無くてはならない栄養素であった.特にマメ科植物の窒素固定にはなくてはならない元素である.
著者が農業試験場に赴任して間もなく,係長から云われた仕事は「土壌や植物のモリブデンをどのようにして分析するか方法と必要な器具を調べてくれ」であった.そして英文の科学雑誌であるSoil Scienceをぽんと机の上に置いていった.それまで英文の論文など読んだこともなくびっくりしたが,研究はこのようにして進めるのだと教えられたような気がした.それから文献を読み,必要な器具,作業手順を確認し,無い器具は隣の建物であった国立農業試験場の知人から借りてきた.その間3ヶ月間,まったくこの作業に嘴を入れてくることはなかった.研究作業において,このようなじっくり考え,行動することがいかに大切であるかこのとき学んだ.そしてこのことを今でもその時の係長に感謝している.4月に入ると現地試験の準備や現地での作業が始まるが,その係長は7月に入ると農業試験場を辞めてしまった.そのため係長のやっていた研究課題は新米の自分に全部引き渡された.大変ではあったがパニックになることは無かった.たぶんはじめの3ヶ月で無言の教えであった.「じっくり仕事を進めればよい」との考えがいきなり新しい仕事を負わされても生きていたためであったろう.
以上は前置きであるが,このモリブデンの国内の論文を読んだのは国立中国農業試験場
における牛のモリブデン過剰問題であった.モリブデンはあのウランの出る地帯で高いらしく,国内では中国地方でその傾向があった.一方,作物のモリブデン欠乏症の写真は殆ど無いらしく,一部に京都大学の教授が用いていた写真は外国の写真の借用であったと記憶している.そのため,その後に書かれた植物栄養学などの栄養素の欠乏症の表現には鉛筆などで特徴が表現された絵が用いられていた.
モリブデンは肥料として吸収した硝酸態のチッソを還元して植物体にしていくために必須の元素である.植物体内の含有率はきわめて少なく,多くは0.5〜2.0 mg/kg(ppm)の範囲にある.さらに多くの植物で調べたオランダのワーゲニンゲン農業大学の調査結果では0.2〜3.0ppmのサンプルが多いが,中には10ppmを越える植物体も見られる.一方,土壌中の全モリブデン含有率は3〜5mg/kgの範囲にあり,10ppmを越える極端に高い土壌も時々散見される.これもモリブデン分布の特徴である.それに反して一部の特殊土壌(蛇紋岩土壌)中モリブデンは1〜3mg/kg程度であり,これらの土壌に生育する植物にはときどきモリブデン欠乏症が見られる場合がある.
農試に在職していたある日,共和町の農業改良普及センターの所長から電話がかかってきた.「農家のカリフラワーがおかしい.見てくれないか」と言うものであった.そこで見た10アールほどの畑のカリフラワーは葉身が縮れ,中には葉茎のみのカリフラワーが見られた.これらは典型的モリブデン欠乏症であった.そこで農試に引き返した.実験室にはリンの定量に使うモリブデン酸アンモニウムが常に保管しているので,これでモリブデン(Mo)が20 ppm (mg/L)になるように溶かし,噴霧器に入れて再び現地に赴いた.これをカリフラワーに散布した.後ほど担当の普及センター長に電話したところ,カリフラワーは正常になり,無事出荷できたとのことであった.この後,国内の植物生理の教科書に出てくるモリブデン欠乏症の写真の多くにはこの時の写真が使われている.
さきにも述べたように,牛にはモリブデン過剰症の発現する事が知られており,獣医学の教科書にもこのことは記されている.そして土壌中のモリブデン含有率が10ppmを越える地帯の牧草は牛がモリブデン中毒を起こすので危険であるという.牧草中モリブデンが3〜10ppmではすでに危険状態にあり,10ppm以上では危険性は明らかであるという.牛のモリブデン中毒の症状で知られていることは,下痢,被毛の退色や脱毛などの異常,発育遅延,起立不全,骨折しやすいなどの骨格異常,生殖器の異常,などである.治療法としては硫酸銅など銅材の経口投与がある.本格的な治療は獣医師の診断が必要である.
モリブデンの分析定量は,以前は100mlの分液ロートに硝酸ナトリウムとチオシアン酸アンモニウムを加えたのち,塩化スズ液を加えて還元状態にする.この分液ロートにイソプロピルエーテルを加え,モリブデンの錯体を溶媒抽出して,分光分析し定量する.この様に複雑な作業なので,農業試験場でも殆どの研究者が経験ない.しかし現在は原子吸光光度計での分析も可能になった.従来のフレーム型での分析は不可能であるが,炭素炉を使うファーネス型ではフレーム型の分析より100倍も感度が良くなり,これではモリブデンの定量も可能になった.
我が国の牛のモリブデン中毒は兵庫県赤穂市郊外のモリブデン精製工場の煙突からの飛散汚染によって1961〜1965年に発生したことが報告されている.モリブデンはアルカリ性土壌で溶けやすいので,土壌管理を適切に行い,健全で安全な飼育を維持したいものである.
コバルト:
コバルトと聞くと,陶器のあの色鮮やかなコバルトブルーの青色を思い出す人もいるかと思われる.少し理屈っぽくなるが原子番号21のスカンジウムから29の銅までの元素を遷移元素と読んでいる.これらの元素は最外殻の電子数がいろいろ変わり,そのため色も変わり,元素が水と反応すると様々な色を示す.1価のカリウム,2価のカルシウムのように決まった電荷しか示さない元素は無色であるのとは大違いである.一時大きな社会問題となったクロムは原子番号が24で,6価では黄色,3価では緑である.水和した27番のコバルトと29番の銅は青色であり,28番のニッケルは緑がかった青色であり,コバルトは陶器の顔料ばかりでなく,ビタミン12の構成元素でもあり,外貨を使って輸入されている.
牛にくわず病があるという.食欲が減退し反芻も緩慢になる.これらの発病はケイ酸含有率が高い酸性岩である花崗岩,石英粗面岩などで発生する.この病の原因はビタミン12の欠乏によって起こる.1948年にビタミン12はコバルトを中心とした構造であることがX線結晶学によって明らかにされたことがイギリスのネーチャー誌に発表された.そのことから牛にはコバルトを1日1〜2 mgを餌に混ぜて与えれば良いことが明らかになった.ビタミン12が必要なのは牛ばかりではない.これは血液を作るときの重要な補酵素でもあり,神経の修復作用もあるという.そのため,ビタミン12はいろいろな製薬会社から売り出されている栄養剤でもある.このように,コバルトは動物にとって重要な必須栄養素であるが,植物にとって必要性はない.
それではその動物にとって重要なコバルト含有率は土壌によって異なるのだろうか.またはどのような土壌にコバルトが多く,また少ないのだろうか.農試での研究対象は深成岩でありアルカリ岩である蛇紋岩のことは先のエッセイでも述べたが,蛇紋岩にはニッケルが一般土壌の100倍も存在する.もちろんニッケルだけでなくクロムや鉄の含有率も高い.地球中心の深いところには重たい重金属が存在するが,まさにこれらの重金属は深成岩であり,蛇紋岩やカンラン岩にはクロム,ニッケル,鉄それにコバルトも多く含まれている.
一方,重金属が低く,ケイ酸が高いため比重が軽く浮き上がり陸地の岩石になっているのが酸性岩の安山岩,石英安山岩や花崗岩である.酸性岩あるいはアルカリ岩との分類の基準はpHを計っての分類ではなく,ケイ酸含有率での分類である.ケイ酸含有率の低い岩石がアルカリ岩であり,高いのが酸性岩である.
中性岩の安山岩質の火山灰土で見ると,コバルトの含有率は低く10ppm以下のところが多い.中には1〜2 ppmの例も見られる.もちろん沖積土壌地帯(低地土)でも低いところが散見される.重金属の分析データを見ていると,ニッケルの高い土壌ではコバルトも高いことに気がつく.非蛇紋岩系の沖積土では,ニッケルの含有率はNiとして10〜30 ppmであるが,蛇紋岩系の土壌になると400 ppm 以上の土壌も出現する.そこで沖積土でNiと Coの相関関係を見てみると,両者間には驚くほど高い相関関係がある.
このことは蛇紋岩質土壌でもほぼ同じで、 ニッケルが1000 ppm ではコバルトは64 ppmもなる.したがって蛇紋岩質やカンラン岩の入っている土壌で生産された飼料で飼育されている動物はビタミン12欠乏にはならないであろう.蛇紋岩土壌で生育した作物では特にマメ科植物でコバルト含有率が高くなり,中には4 ppmを越える植物体も見受けられる.しかし同じ土壌でもイネ科植物では低く,1 ppm 以下の植物も見られる.したがって,イネ科植物を牛の飼料にする場合はその辺も考慮する必要があろう.
亜鉛:
亜鉛(Zn)は土壌中に60〜100 mg / kg存在する.平均値は80 mg / kgである.植物にとっては成長ホルモンで,欠乏すると成長点に異常が発生する.すなわち成長点近くで緑色が薄くなり,そこで曲がり成長しない.甚だしい時は植物体そのものが成長しない.このような場合は硫酸亜鉛などの要面散布で正常に回復が可能である.北海道で見られる植物体中の亜鉛含有率はZnで20~40 mg / kgであるが,ワーゲニンゲン農科大学の国際データでは平均値が100 mg / kgにもなる.もし硫酸亜鉛の葉面散布をするとなれば硫酸亜鉛はZnを36.4%含むので,硫酸亜鉛としては10L当たり300g(Znとして1%)の硫酸亜鉛を溶かし,これを1000Lの薬物散布溶液に混ぜ散布する.薬散の目的がなければ水だけで希釈しても良い.植物に欠乏する土壌中の可溶性濃度は火山性土で0.1 N HCl-Zn 2.0 mg / kgであるが,蛇紋岩土壌では3 mg/kgでも亜鉛欠乏は発生する.これは吸収に際してニッケルとの競合があるためだろう.
マンガン:
マンガン(Mn)は植物にも動物にも必須の微量元素である.植物では光合成の際に出てくる酸素を除去してその害から植物を守る働きがある.一方,動物ではマンガン欠乏によって生育遅延や生殖機能の異常が指摘されている.
植物によるマンガンの吸収は土壌pHに大きく左右される.土壌pHは土壌本来のpHだけでなく,窒素肥料の硝酸化成にも大きく左右される.網走の東京農大網走寒冷地農場に勤務しているとき,5月中旬に雪の降った春先の寒い年があった.そのため,起生期(雪解け直後)に追肥したアンモニウム系の肥料の硝酸化成が進まず,普通年は土壌pHが6から5まで低下するのが,その年は高いままであった.5月下旬になり,コムギなどはマンガン欠乏のため,葉先が白くなり,あたかもチッソ欠乏の症状を呈した.農家の一部はチッソ欠乏と解釈し,雪の中での追肥をする有様であった.そこで硫酸マンガンを買い込み,10Lの温水に1kgの硫酸マンガンを溶かし,それを農家に配ってまわった.溶かした硫酸マンガン1Lを薬散布時に1000Lの薬物溶液に混合し,撒布するように指導した.Mnの濃度は32 mg / kgである.これでマンガン欠乏症は解消した.
一方,低マンガン飼料で飼育された牛や山羊では発情や妊娠が遅れ,ヨーロッパではその改善の為にマンガンの補充することがおこなわれている.
ヒ素:
ヒ素(As)は昔からその有害性が知られ,暗殺などにも使われてきたことは知られている.したがって,飲料水にもヒ素濃度は厳しく制限されている.国際的な生活用水のヒ素の規制値は10μg/L(mg/Lのさらに1000分の1)以下である.しかしながら東南アジアにおける生活用水の地下水ヒ素汚染は深刻である.その為インド・西ベンガル州やバングラデッシュには日本国内からもその対策の為の調査やヒ素除去のための機器の売り込みが行われている.
インド北部のアラハバードを訪ねた時,貧しい農村のヒ素汚染井戸水が放置されている事に気がついた.そこでガンジス河の支流であり,アラハバード大学の近くを流れるヤムナ川沿いの井戸水のヒ素含有率を調査した.その結果,高いところは250μg/ Lを超える井戸水の存在も認められた.
国際的なヒ素濃度の規制値は10μg/Lであるが,インドのヒ素の規制値は50μg/ L が上限とされている.それでもさらにその5倍ものヒ素汚染井戸の存在することが認められたのである.これは深刻な問題であると認識した.インド地方のヒ素汚染の原因はガンジス河のような古い大河にも原因があるが,日本の協力隊などの親切が原因になっていることもある.井戸水をくみ上げるポンプの水が汚染水と一緒に井戸水の中に落ち込まない様にコンクリートで塞いでいる.そのため,井戸水には空気が行かず,酸素の含まない還元水になる.ヒ素は還元型の亜ヒ素になると溶け易くなるのである.これが井戸水のヒ素を高める原因となっている.
そこで地元のアラハバード大学の教授とも協力して,貧しい農村でも可能なヒ素除去法を検討した.その方法は錆鉄の中を通す事である.従来の木炭や砂を通す水の濾過装置の上に鉄含有率の高い赤土と酸化鉄を置いて水を通すのである.これによるとヒ素濃度は10μg/L以下まで下げることが可能であることがわかった.これはヒ素の溶解度を応用した方法である.ヒ素は酸化鉄とは不溶性化合物になるのである.
ヒ素による汚染水は決して東南アジアのみではない.日本国内でもヒ素汚染地帯は多く,北海道でも中山峠の両側は高ヒ素地帯である.札幌を流れくだる豊平川の上流には高ヒ素の硫砒銅鉱も存在するし,札幌市の地下水調査でも環境基準を超える井戸も多く見つかっている.ヒ素汚染は人ごとではない.
水銀:
水銀(Hg)は重金属であるが液体にもなり,気体にもなって蒸発する.蒸発をした水銀は水と同じでまた地球上に戻ってくる.いまでこそ水銀は有毒な物質として認識され,水銀を使った体温計や蛍光灯も排除する方向にあるが,有史以来過去には随分使われてきた.古くは神社仏閣の赤色の塗料は硫化水銀の辰砂であった.またこの赤い辰砂は顔料にも使われてきた.中世ヨーロッパでは水銀を金に作り替えると夢見て多量の水銀が使われた.日本でケイ酸含有率の主要な水銀鉱山は北海道のイトムカ鉱山と奈良大和鉱山が有名であるが,奈良の大仏殿が作られたとき多量の水銀を使ったという.
水銀の有害性は水俣病で一気に知られる事になったが,有史以来水銀はいろいろ使われてきたがその認識はなかった.その例を挙げると,奈良の大仏は西暦747年に起工し,752年に完成した.それは大仏に金で塗るために,金を水銀に溶かしてアマルガムとし,このアマルガムを大仏に塗る.これを加熱して水銀を飛ばすと後には輝く金が残る.このとき使用した金は400キログラムと云われ,使用した水銀は2トンであったと見積もられている.
その後奈良の盆地には奇病が発生したと云われる.お化けとか幽霊という言葉が流行ったのはこの頃からと云われる.奈良の平城京は784年に京都盆地の長岡京に遷都するが,この奇病の流行の為だったと云われている.この問題は2000〜2010年ころに盛んに医学系研究者に言われたことである.
さて,水銀が年間どの程度空から降ってくるか調べたことがある.蒸発した水銀は雨と同じで,また地上に戻ってくる. それはどのようにして調べたかというと,火山灰層を使ったのである.北海道の主要な火山灰土は降灰年代が明らかにされていること.また200年前までは水銀を使用するような工業も無かったことが幸いした.火山灰あるいは火砕流などの発生は支笏湖誕生による火砕流の発生は32,000年前,屈斜路湖の誕生は34,000年前,恵庭岳のEn-aの噴火は15-17,000年前,樽前山の噴火のTa-aは西暦1739, Ta-bは西暦1667, Ta-cは1.6 ka(ka: 千年前),Ta-d は8.9 kaと言われる.例えばTa-d中の水銀は8,900 – 1,600年の7,300年間の水銀量となる.このようにして水銀量を計算した.当然,同じ火山灰土でも上の方が高く,下の方に行くにしたがい低くなり,中には水銀の検出されない火山灰層も存在した.火山灰の各層から得られた水銀量は合計され,それぞれの火山灰に蓄積した水銀(Hg)とし,それぞれの年代の降下水銀量とした.これを年数で割って,年間水銀降下量を求めた.
水銀調査に用いた火山灰は苫小牧,安平,夕張,富良野,網走で行った.これらから得られたデータの平均値を地球全体に降下する水銀量も同じとして計算し,それを地球全体の面積に換算して下記の図に示した.年代の数値は物理年から何年前という意味である.物理年とは西暦1950年であり,単位はyBPと表示される.これは何年前といっても年月は変わるため,決まった年を基準にしたのである.yBPはこの物理年の1950年から何年前であることを示している.図からも判るとおり,34,000年前の氷河期から人類の活動が始まるほぼ2,000年前までの地球表面に降下する水銀量はほぼ1500トンであった.それから中世の211年前である1740年にかけてそれまでの3倍の年間約5,000トンの水銀降下に変わっている.人間の活動によっていかに水銀の使用量が増加したか想像出来よう.その後も水銀降下量は増大し,近年では地球全体で年間7,000トンの降下量となった.
確かに水銀の大気への放出は人為的でない物も含まれている.火山などからの排出である.その他石炭や石油の消費による水銀の放出も年間910-6,200トンになるとの報告もある.その他危惧されるのは東南アジアやブラジルでの金の採掘に使用される水銀である.奈良の大仏の金メッキでも述べたように,金は容易に水銀に溶けるため,金の精製のときに安易に水銀が使用される.これらの禁止は国際的な問題となろう.水銀の汚染は何も農薬や工業生産における触媒ばかりではないのである.
1993年にイギリスのネーチャー誌に3万4千年間における水銀堆積を南極の氷で調べられたとの報告があった.これらのデータは凸凹で,水銀の堆積を推定できる報告書では無かった.雪の降る量は場所によってムラがあるし,濃縮されない水銀はきわめて薄く,検出するのも困難であったろう.その点火山灰での調査は何千年,あるいは何万年の水銀を濃縮する効果もあり,南極の氷よりもはるかに有利であった.
一方,水銀の分析法は進歩し,微量の値でも定量が可能になった.おそらく現在の水銀分析機器では蛍光灯を実験室で壊しても水銀分析データに狂いが出てくるであろう.古い多くの化学実験室では過去に水銀の使用がある場合が多い.中には床下から水銀が出てくる場合があると云われる.先に述べた実験データは酪農大に新しく出来た動物病院の三階に,精密分析室が整備され,そこに水銀分析機器も装置された.そのため精度の高い水銀の定量が可能になった.

EPSON MFP image
42. 十勝岳による泥流地帯
三浦綾子の「泥流地帯」あるいは「続泥流地帯」を読まれた方は1926年に十勝岳の爆発によって多くの犠牲者があり,特に上富良野町の農地には多量のイオウを含む泥流が流れ込み,その後も大きな被害が出ていることを知っているに違いがない.しかしこの問題は「泥流地帯」に出てくる農事試験場の技師さんとして出てくる猪狩源三氏の精力的な研究報告書以外なく,農業試験場ではほとんどこの問題に触れないできた.一方「理科年表」をみても十勝岳の災害は小さく表示されているだけで,その被害はほとんど想像出来ない状態にある.
私も十勝岳泥流の問題を長い間知らずに過ごしていたが,農業試験場では毎年農地に対する施肥基準を設定する会議を行っている.その会議で富良野盆地だけ水稲のチッソ施肥基準が他の地域の2倍にもなっているのに疑問を持ったのが始まりであった.そのうち上富良野地帯を見て歩く機会があり,ある農家が「我が家の水田に何かよからぬ虫がいる.イネが根本から食いちぎられている」というのに出くわした.それでこれはとんでもない大きな問題でることに気がついた.それは虫によるものでは無く,硫化水素によるイネの根腐れであったのだ.
昭和10年代,化学肥料の普及に伴い,水田の秋落ち現象が大きな問題となった.それは硫安などの使用によって入るイオウ(硫酸イオンSO42-としてはいる)が酸素の少ない水田土壌中で硫化水素(H2S)となり,その有毒性によってイネが根腐れを起こし生育が停滞する.イオウの被害を受けたイネは出穂後の秋に落水すると急速に生育が悪くなることから,これを秋落ち現象と云われてきた.この対策には鉄材を施用する事と,水田には硫安は使用せず,イオウの含まない塩安を使用することになったのである.このような秋落ち水田の対策が効果を現し,昭和年代の中期以降は秋落ち現象を見ることはほとんどなくなっていった.
しかしこれも昭和後期になるとあちこちで秋落ち現象が現れるようになってきた.秋落ち現象の知らない世代の指導者が増え,産業廃棄物として多量に生産されるイオウの処理に困ってアンモニアによる処理によって多量の硫安が生産されるようになった,これを水田にも使用されるようになったからである.このようにして発生しだした秋落ち水田を「新秋落ち水田」と云われるようになった.なにも新秋落ち水田ではなく,本物の秋落ち水田の発生だったのである.
この問題の発生を危惧し,私は道内水田のイオウ含有率を調べた.すると北海道の水田土壌のイオウ含有率の平均値は0.06%(600mg/kg)であり,0.1%以上の土壌はほとんどなかった.地帯別では土壌粒子の粗い石狩川上流の上川では低く,下流に行くに従い土壌粒子が細かくなる排水不良の水田ほどイオウ含有率は高くなる傾向にあった.
問題を泥流地帯に戻すと,泥流のあった富良野盆地,あるいは美瑛町の管轄は道立上川農試の担当区域であり,私のいる道立中央農試は担当外であった.それにこの泥流問題は手を付けると泥沼に入るとの意識からだれもこの問題に手を付けようとはしなかった.そうしている内にチャンスがやって来た.私が網走の東京農業大学寒冷農場に移ることになったのである.もはや農試の暗黙の了解に縛られることがなくなった.
十勝岳の泥流の発生は1926年に遡る.この年の5月24日に十勝岳は噴火した.5月の末,十勝岳にはまだ多量の雪が残っていた.噴火は山頂に残る多量の雪を瞬時に溶かし,多量の泥流発生の原因となった.大規模な泥流は富良野川と美瑛川に別れて流下し,爆発後25〜26分で火口から上富良野原野まで到達したと云われる.この泥流で死者144名,家屋の損壊372棟,馬や牛などの家畜68頭,鶏602羽が失われた.この爆発は日本の火山爆発でもきわめて規模の大きい惨事となった.泥流被害の農地は富良野側でほぼ800ヘクタール,美瑛側で200ヘクタールにおよんだ.調査に当たった猪狩氏による調査報告書によると,泥流は中富良野と富良野市の間にまでおよんでいる.問題は泥流による土砂に埋もれただけでは無かった.それは年間2000トン近い生産をしていた多量のイオウが土壌と一緒に農地に持ち込まれたことである.
この多量のイオウの持ち込みはその後のこの地帯の農民を苦しめる原因となった.畑地ではイオウによる土壌の酸性化で作物は育たず,水田では酸性化と硫化水素による根腐れの発生でイネは育たなかった.この問題は農業試験場の研究員でも「手に負えない問題」として研究することすらためらわす大きな問題であった.
われわれが調査に入った1992年にはまだ災害時の生き残り被害者の老婦人がおられた.
彼女によると最初は全く泥流を予想しなかったという.カーキ色の泥流をみたとき、最初は兵隊さんが横列になって進軍してきたと思ったという.それが山津波と気がつき、急いで木に登り助かったという.この言葉はあまり大きくない火山噴火の場合,その危険性が身近に迫るまで判らないことを教えてくれる.
泥流におおわれた土地の被害農民は土壌の酸性矯正,水田では客土事業で長年改良に努めてきた.多くの関係者は不良土壌にイオウを含まない客土を10〜15cmもすればそれで改良対策は終了すると考えた.予想通り客土の土にはイオウは含まれていなかった.しかし土壌調査をしてみると,客土の層でもいずれも高いイオウ含有率が検出されたのである.何故か,それは下層のイオウが土壌還元によって硫化水素のガス化によって地表まで上がってきたのである.それにも関わらず,地元の農業指導者や農協ではこれらの水田に硫安を使用させていた事実まで判明した.土壌におけるイオウに対するあまりにも無知なことに唖然とする有様であった.
土壌調査は上川農試の土壌肥料科長である稲津 脩博士と大学を卒業したばかりの後藤英次技師,富良野地区農業改良普及センターの丸岡孔一技師の協力を得て行った.農大ではわたくしの研究室の学生である清水和也哉,渡辺一洋,久保与子,それに斉藤陽一が参加した.網走からの出張であった.調査地点は出来るだけ噴火直後に猪狩源三技師が行った地点を中心に行っていった.掘って見ると泥流は一見して判別がついた.あのように細かくなっても泥流中の砂は角張っていて丸みを帯びた河川の砂とは全く異なることが判った.泥流の最も厚い層は85cmもあって,これはこの地点の猪狩源三技師の調査結果と同じであった.客土層は15〜30cmの厚さにあり,先人達の並々ならぬ苦労の跡が見て取れた.
一方,土壌中のイオウ含有率は泥流で0.1〜6.2%,平均で1.4%にもなる高い値であった.また,本来イオウが存在しなかった旧作土でも平均値は1.2%にもなり,イオウの存在しなかった客土層でも平均含有率は0.63%にもなった.この値は北海道の水田土壌の10倍の数値であった.泥流で持ち込まれたイオウは本来イオウが存在しなかった旧作土や,客土した現在の作土層でも驚くべき高濃度に存在することが明らかになった.まさに秋落ち水田の土壌であることをここで農業を営む人達は自覚すべきであろう.
それではこの対策をどうすればよいか.それは戦後から云われてきたように,酸化鉄の含有率を増やすことである.硫化イオン(S2-)は酸化鉄と親和性があり,結合して硫化鉄となる.この結合力はきわめて強く,少し理屈っぽくなるが,その溶解度積は
二価鉄イオン FeS 5.0 ×10-18
三価鉄イオン Fe2S3 1 ×10-88
となり,硫化イオンと鉄の溶解度積はきわめて小さいことが判る.つまり融けにくいということである.硫化鉄はあのドブの黒い色の化合物である.イオウの多い水田ではいくら土壌を入れても,硫化水素になって上にあがってくるので,なかなかその害作用は押さえることが出来ない.硫化水素を押さえる方法は作土層の下に酸化鉄を入れて,ガスとなって上がってくるイオウを鉄と結合させ,そこで押さえることである.
余談になるが,全くこことは異なる地区でイオウ対策をしたことがある.そこは上流に鉱山があり,長年硫化イオンが流れ下り,下流の泥炭層に多量のイオウの堆積層が出来た.そこに水田を作ったものだから,水田のあちこちに穴があいたようにイネが枯れ出したのである.地元では原因が判らず,雷が落ちたと思ったらしい.調査結果はイオウであった.地下1mの深さまで調べたが全く泥流地帯と同じ程度のイオウ分布であった.そこで対策としては作土をよせ,その下に酸化鉄の層を設け,作土を戻して水田とした.その後はまったく障害が発生していない.
1993年にその対策として苫小牧の日本軽金属の赤土と呼ばれているスラグであるアルミニウムを取り出した滓を使用する試験を行ったことがある.これは酸化鉄が42%も含まれ,pHは12にもなるまさに酸性硫酸塩土壌向きの改良資材であった.施肥土壌は土壌還元期でも酸化条件を示していた.イネの生育も順調であった.残念ながらこの年は平成の大冷害の年であった.イネができすぎることが不稔につながる年であった.そのため,折角の順調な生育がマイナスに働く結果となった.おそらく現在のように高温が続く時代では全く違った結果になっただろう.
なお,後の話であったが,アルミニウム精錬滓のスラグが農林水産省の土壌改良資材になっていることは後から知ることになる.おそらく800haもの大面積の改良資材としてはアルミニウム精錬よりも,その後始末に困っていた苫小牧の日本軽金属のスラグの方が最も適した改良資材であったと今でも信じている.
上富良野町で問題なのは泥流被災地ばかりでない.この地帯の土壌の60%の土壌のイオウ含有率は0.2〜0.8%の高い水準にあることだ.泥流の被害のなかった山側の畑地帯でも土壌pHは殆どが5以下で,土壌のイオウ含有率は0.1〜2.7%と著しく高い.原因は十勝岳を流れ下る河川水である.もっとも多量のイオウを流入する川はフラノ川,ヌッカクシフラノ川で,この両河川だけで年間6000トンものイオウを流下している.その他,べべルイ川,デポツナイ川,ホロベツナイ川などいずれもイオウ含有率が高い.これらの河川水を灌漑に使用している間は農地のイオウ問題は解決しない.これらはフラノ川に合流し,空知川に流れ下る.
空知川の流れ下る芦別市の野花南にはダムが造られた.このダムは下層に堆積した汚泥を取り除くためにダムの取水口の下側に水抜き口が作られたと聞く.年間6000トン以上ものイオウが流れ込むフラノ川の水をため込んでいるダムである.イオウは停滞して還元した水の中では沈殿する.もし多量のイオウを含んだ汚泥水がこのダムから流れ出たら,空知川は滝川で石狩川と合流し,江別市を通って石狩湾に流れ下る.多量の硫化物はこれらの河川に生息する魚をはじめカニやエビなどの甲殻類を根こそぎ絶滅させるであろう.このことを河川管理者は理解しているのだろうか.十勝岳の危険性は噴火であることは理解しているだろうが,イオウも大きな問題であるとはあまり聞いたことはない.この問題をもう一度考えて頂きたいものである.
なお私事ではあるが三浦綾子の小説,「泥流地帯」に出てくる技師さんは猪狩源三氏である.昭和33年であったと思うが,当時酪農学園短期大学には土壌学担当の教員はおらず,猪狩源三氏が講師を務めた.私は彼の最後の学生であった.後にジャガイモそうか病の抑制因子の解明に役だった置換酸度y1の測定法も彼の教えによるものであった.通り一遍の講義ではなく,講義でもまるで実験をしているように,具体的に教えられた.今さらながら感謝に耐えない.彼は我々の講義を持った翌年に亡くなっていたことが近年に知り合ったお孫さんによって知ることが出来た.猪狩源三氏が生涯をかけて取り組んだ十勝岳泥流の問題を「泥沼に入る」との恐怖から,手を出さなかった農業試験場はあまりにも情けない話である.災害国日本にあってはこの問題は単にフラノ盆地だけの問題だけではなく,日本そのものの問題であると考える.
43. 陸前高田市の津波の歴史
2011,3, 11の午後2時46分に大地震が東北東部を襲った.この日,あるところに送金の予定で2時半頃,栗山町の農協に行った.時間が午後3時に近いのと,農協では他の農協と金融機関が違うので受け付けられませんと断られた.そこで諦めてトボトボと歩いて帰路についた.急に身体がグラグラと揺れだした.脳溢血でもなったのかと一時は愕然とした.しかしそうでもないようなので家まで歩いて帰り着いた.地震が来たとは全く考えなかった.家に帰り着いてわかった.とんでもなく大きな地震があり,津波が来るという.大きな津波が畑を襲い,民家を襲い,それをテレビが放映しているのだ.大震災が目の前のテレビで進行しているなど信じられない光景だ.その後大惨事が明らかになってくる.
その後津波の過去の歴史を語られる時が来た.日本人が実体験して記録に残っているのは貞観(西暦869年)の津波からである.どうもその前の津波の記録はないらしいことがわかってきた.7月に入ってから,津波の走った農地が心配で,農業が可能かどうか気になってきた.そこで獣医学部の能田准教授と調べに行くこととした.最初は 2011年の6月の末に車で函館まで行き,そこからフェリーで青森に上がり,延々と陸前高田市まで能田准教授の運転でたどり着いた.まず驚いたのはあの大きな街だった陸前高田市の街が消えていたことだ.大きなビルは鉄筋だけ残しているだけのところが多かった.とりあえず宿を探したが,旧陸前高田市にはなく,ようやく少し内陸の矢作(やはぎとよむらしい)の小さな温泉宿に泊まることができた.宿は満杯で,風呂は45℃もあるのか到底入ることができなかった.風呂に入ったら,さっさと上がるように宿で仕込んだのだろう.
翌日は車で津波の遡った気仙川に沿って畑の土壌を電気伝導率で測りながら回り,大船渡側を盛川にそって下った.いずれも電気伝導率は心配しているほど高くなく一安心というところであった.最後のつもりで入ったのが陸前高田と大船渡の間にある半島の付け根であった.小友である.「これで最後」と言いながら調査コテを表層の黒泥土(泥炭が分解してできる)に入れた時である.10cmほど下から海砂が出てきたではないか.それで直感した.この下にはこれまでの東北における津波の歴史が残されていると.1m2を30cmほどの深さまで掘ってみて確信した.間違いがない.しかし今回の装備では調査ができない.出直そうと能田准教授と話し,一旦北海道に戻ることとした.
再度出向いたのは7月20日頃である.この時は花巻で脚立を購入した.掘る穴が深くて出入りができない可能性があったからだ.まず標高3mの低いところから始めた(写真1のA).最初ここは国土地理院の標高では1mとなっていた.どう考えてもそんなに低くないがやはり2024年には訂正されていた.穴掘りは私がすることになった.恵まれて育った方にはスコップで効率よく体力を消耗せずに穴を掘る作業は無理であることがわかり,写真撮影を専門にしてもらった.
写真1のAの地点では,上から1.6mの深さで,本来の砂地に到達した.そしてその間には13回の津波の海砂が泥炭を挟んで堆積していた.これは驚きであった.岩手の温かい地方で,泥炭が見られたのも予想外であった.年代測定からこの地点をAとすると,津波の襲来は4,000yBP(1950年から4,000年前)からであることも明らかになった.これは何を意味するか,縄文期の暖かい時期から一時的は寒冷期の弥生期に入った時期である.海水面は縄文期で現在より4〜5m高かったと言われ,当時この辺りは海の中だったことが想定できる.
次に掘ったのは標高6.5mで,少し入江になっているところである.写真1のBである.ここでは1.8mまで掘削した.そこで1.7mの深さに最初の津波の海砂が認められた.これらの掘削地点,AとBを図解したのが下記の図1である.B地点では明治29年?と2011年の津波を津波1とし,貞観の津波を津波2,その後の津波を順に番号をつけた.津波と津波の間の泥炭はほとんどが25cmであった.しかし貞観の津波の後の泥炭は50cmもなった.ここだけ泥炭の厚さが2倍である.そこでこれはおかしいと思い,ここで大船渡の海岸に近い同じ標高(地点D)で調べたところ,やはりこの間には津波の痕跡が見つかった.なぜそのようになったか,標高の変化を見るとその原因がわかった.ほぼ2000年前,この頃は寒い時期があり,海水面が下がったのである.そのため内陸の入り組んだところまで津波の海砂は届かなかったのである.
今回の調査で分かったことは,津波の高さが25mあっても,海砂の届くのはせいぜい7~8mである.ここの図では明治の津波と2011年の津波を津波1として記した.すると内陸まで流れ込む大津波はほぼ1000年に1回あったことがわかる.そして大津波の襲来の痕跡があるのは6000年前からである.なぜその前がないか, 1万年前の標高は現在より120mも低いかったためである.これが縄文期に入り,温暖化で1年約4cmの速度で上昇した.津波の襲来は標高の変化と密接な関係があったのである.だだし6000年前の泥炭は北海道などで見られる泥炭ではなく,南方のインドネシアなどで見られる木材などのトロピカル泥炭であった.


標高の変化と津波
津波のデータをまとめているうちに意外なことに気がついた.津波の発生被害は地震発生ばかりでなく,標高の変化,すなわち海水表面の上下とも密接に関係していることだ.例えば標高3mの浜辺では4000年前からの津波の堆積物が層位に残っているが,その前は存在しない.その前は海の中であって,津波堆積物が沈着する条件になかったからだ.
国土地理院によるとB地点は現在標高が6.5mである.しかしここではほぼ7,000年前から泥炭と津波による海砂の堆積が1.5mにもなり,また当時の縄文期では現在より4mも海面が高かったので,当時の標高はせいぜい1m程度であったろう.
氷河期は海水面が現在より120mも低かったことが報告されている.しかし,氷河期が終ったからといって,海水面が現在の位置に急に戻ったわけではない.暖かい時期のあったことは6,000年前の泥炭が木質のトロピカルピートであることらもわかる.4,000年以降の弥生期には一時的な寒冷期があり,このトロピカル泥炭はその後における泥炭とはおのずから異なることからもわかる.
そこで海水面は1950年から数えて10,000年から7,000年前の近くまでのほぼ3,000年かけて現在の水準になった,その後さらに海水面は上がり,6,000年前には現在より4~5m高くなったと思われる.なぜ氷河期の終わりが1950から数えて10,000年前からなのか,それは11,000年前の時代に寒冷期あったと言われているからである.いずれにしても約3,000年で120mの上昇である.1,000年で40m, 1年に約4cmの上昇である.
現在,南太平洋の島々で,海水面の上昇が大きな問題となっている.例えば南太平洋の珊瑚礁の島であるキリバスは平均標高が2mの平坦な島であるという.海面が上昇しても逃げ場がない.もし2mの標高で年間4cmの海面上昇があれば50年で島は海中に没してしまう計算となる.もちろん海面の上昇は温暖化で海水が膨れて水面が上がるのではなく,高山や南極,あるいはグリーンランドや北極の氷が溶けて上昇するので,氷が少なくなれば海面の上昇は同じ速度で上がることはない.それでも珊瑚島の平均標高が2mというのは極めて危険な高さである.縄文期には海水中にあった高さであることを忘れてはならない.
6,000年前の縄文期の海水面は現在より4m〜5mも高かったと思われると述べてきた.なぜなら江別市大麻で見ると,現在大麻の台地の下手に広がる泥炭地帯は標高が4~5mであるが,縄文期には海水が入っていて,縄文期の遺跡は大麻の台地の方にあることが明らかにされている.もちろん泥炭地は縄文期より発達したと思われるので,縄文期を現在の標高では判断できない.
一方,千歳市の美々貝塚は苫小牧市の海岸より10km以上も離れた内陸にある.縄文期時代は現在の御前水付近まで海だったことが容易に想像される.交通機関もなかった縄文期に,10kmも離れた海まで漁に行くことは考えられず,海がすぐ近くであったと考えるのが自然であろう.現在,美々川の流れている付近の標高は4~5mである.このあたりは海水に没していたと考えるのが自然である.したがって海水面は縄文期の海進によって現在より5m以上標高が高かったことがうかがわれる.
井関((1963)によると,弥生期の2000年前を挟んで前後3世紀,すなわち1700~2300年前に寒冷期があり,海面が現在より2mほど低かったという.縄文期の最も海水面が高かった時期よりも6〜7mも海面が下がったことになる.このことはB地点の津波4が欠落している2000年前と一致する.この時期に海退が起こっていたのだ.このように津波の痕跡は過去の気象の証人でもあることがわかる.
2011年の津波跡を見ると,津波の高さが20~25mであっても,津波によって運ばれてきた海砂はせいぜい7~8mの高さまでである.このことからもB地点で2000年前に海砂が見られないのは津波がここまでこなかったのではなく,津波は来たが海砂は運び込まれなかっただけであろう.
岩手の津波被災地帯に通って感じたことは,太平洋に近づくほど山の傾斜が急になっていることである.これが内陸に行くほど山の傾斜はなだらかになるこが認められた.これは当然かもしれない.地殻が絶えず押されている海岸線の山の傾斜がきつくなるのは当然かもしれない.「山に避難せよ」と言われても山に登る対策がなされない限り海岸線の住民にとっては容易なことでないことを理解する必要があろう.
ところでなぜこれまで津波の歴代の堆積層が見つからなかったのだろうか.津波の走った現場を回って感じることは,津波によって持ち込まれる海砂は主流の津波の走ったところでは引き波で殆どが海に戻っていく.われわれのたどり着いた陸前高田の小友は陸前高田と大船渡の間に突き出た半島である(図2).津波は陸前高田と大船渡の河川を10km以上も溯り,引き波で戻って来る.この津波の本流の走ったところは何もかも流されている.ところが小友は両津波から別れた波が半島の中央で衝突し,そこで流れが止まり海砂は沈殿したのである.砺波の衝突した位置は何組かの小学生のグループに聞いて回り,いずれも同じ位置であった.それを図3に示す.
このような地形が太平洋岸の何処かにあるか地図で調べた.しかしそのようなところは見つからない.おそらくここが唯一の場所なのかもしれない.このように津波の痕跡は津波本流の走ったところでは残っていない.これが津波の歴代の層が見つからなかった大きな理由であったろう.もっと早く津波の歴史がわかっていたら,あの福島の原子力発電所の事故も塞げたかもしれない.残念である.
44. ピナツボの噴火と冷害
1991 年6月から「1992年8月までフリッピンのピナツボ山が噴火し,86,000haもの国土が泥流で埋没した.これは北海道の水田面積のほぼ半分に相当する.この災害に対応のために国際学術研究として科学研究費補助金が交付され,東北大学農学部土壌学研究室を中心に東京大学,鹿児島大学,それに私学では東京農大の私が参加した.年に1〜2回フィリッピンの現地に赴き5年間フィリッピンに通った.
そこで眼にした光景はまさに天地創造というべき姿であった.標高1500mのピナツボ山はほとんど吹き飛び,もとあったところからわずかに噴煙を上げている状態であった.当時,我が国では九州の雲仙普賢岳も噴煙を上げていたが,ピナツボ山の降下堆積物や火砕流堆積物は46.3億m3と推定されている.この値は雲仙普賢岳の1億倍ともいわれる.仮にこの泥流堆積物を10mの厚さに広げたとすると,その面積は4,000km2になる.これは北海道の面積の1/20に相当する.膨大な量である.
この噴火によってフィリッピンの穀倉地帯の中部ルソンは大きな被害を受けた.肥沃だった耕地は生産力のない粗い火山灰に覆われ,イネは鉄欠乏によって黄褐色になって枯れていった.これらの対策はEDTA-Feやクエン酸鉄の葉面散布で解消が可能であることが試験でわかった.また厚く荒々しく堆積した火砕流は人を寄りつけない砂漠と化した.これらをどうするか,特に農業の対策はフィリッピン大学農学部で実施された(写真参考).
泥流は夜中でも音もなく流れ着いて家を飲み込んでいくという.そのため,現地を歩くと家の下に5mものコンクリートの柱を立て,その上に寝泊まりする家を立てているところも見られた.大きな川は橋がたちまち泥流に埋没するため,これをたえずブルドーザーで土砂の排除をしなければならなかった.
そのような厳しい条件でフィリッピン大学農学部の試験では落花生が意外な好成績を収めた.どのようなわけかわからなかったが,肥料も何もやらない落花生がもっとも良好な成績を上げた.これを時のラモス大統領は大変喜んで,これでバター豆も食べられるし,落花生の輸出もできると落花生を手に持って新聞にのせていたのが印象的だった.
火山噴火で重要なことはこのような土壌対策だけでない.日本ではピナツボ山噴火の2年後の1993年に大冷害になった.原因は成層圏にまで達した火山灰の小さな塵である.これが太陽光を遮り,日本国中を大冷害にした.このことは日本の政治家も頭に置く必要がある.どのように高温の日が続いても,世界の何処かで大きな火山噴火があれば大冷害が発生することを.先にも書いたように,火山噴火ばかりではない.シベリアの森林火災でも冷害は発生するのだ.
日本には大冷害で多くの餓死者を出した歴史がある.その一つが天明の飢饉である.1783~1788年までの大飢饉は浅間山の噴火によるといわれる.多くの餓死者を出した冷害は奇妙に火山噴火と関係している.これは火山噴火と直接関係はないかもしれないが,有珠山地帯の昭和新山は昭和18,19年にできた.昭和20年は敗戦の年である.この年の北海道は大冷害であった.ただでさえ食料不足にあった日本はこれで大ダメージを受けた.「コメの生産は消費する量だけ作れば良い」と農水省の役人は考えているかもしれない.しかしそれが突然不可能になることがあるのだ.そのことを考えていてもらいたい.
45. ジャガイモそうか病騒動記
このエッセイは2018年の日本土壌披露学会誌の第89巻2号に発表した原稿にいくらか文章を書き加えた.学会誌の論文形態になっているが論文ではない.近年,学会誌への投稿が減少したので,なにかエッセイ調子で書いてくれないかとの編集部の依頼によるものである.主要部分は学会誌に発表したとおりであるが,一部に用語などの説明を加えた.また関連を調べたい人のために文献も残した.
1)はじめに
最初にジャガイモそうか病,いわゆる瘡蓋のついたジャガイモであるが,これに関する文献を見たとき,科学の世紀といわれる二十世紀の終わりの時期において,一世紀近くも進歩しない農業技術分野があるのかと驚いた.土壌病害でありながら,土壌科学者や化学者が関与している様子はこれらから感じられなかった.本病の研究の歴史は古く,19世紀の終わりにはすでに原因の病原菌や必須要素と本病との関係の研究などはすでに終了していた.また本病害が発生するときの土壌条件の一つであるpHの影響などについてはすでに明らかになっていた.そして酸性土壌で抑制されることからそれは土壌中の水素イオンが抑制因子であろうと考えられていた(Horsfall et al. 1954).しかしながらその発生の度合いは土壌によって大きく異なることや,抑制可能な土壌pHが土壌の種類によって異なるために共通する発病抑制のための方法は得られていなかった.すなわち抑制因子は不明のままであった.
1990年に東京農業大学網走寒冷地農場に赴任したとき,ずいぶんひどいジャガイモそうか病が発生しているとは感じたが,研究対象が土壌化学である者にとってそのころはまだ自分の管轄外であると考えていた.この研究に関わることとなったのは1991年の11月であったと記憶している.この時期は農場での長いもの収穫時期であり,収穫物が夜の低温で凍結しないように手当てをして夜遅く帰宅して間もなくであった.北大の農学部長であった岡島秀夫先生から22時過ぎに電話があって,「ジャガイモそうか病防止法の研究をやってくれ」というものであった.先生は当時北海道農業フロンテア研究会の会長をされていたことを農試にいるときから知っていた.しかしこの会が何をしているのか知らなかった.ジャガイモそうか病対策の研究会であったのである.これが本研究に関わる発端であった.
2)ジャガイモそうか病に対するアルミニウムイオン影響に対する戸惑い
そこで過去の研究を文献で調べていった.それらからアルミニウム(Al)に対する検討が欠落していることに気がついた.粘土鉱物の構成元素であるアルミニウムは土壌中最大の含有率の金属で,北海道の農地の平均値でもAlとして8%も存在し,これは鉄含有率の2倍である.また酸性土壌では容易に溶け出し,1980年代には東ヨーロッパの酸性雨で森林破壊や湖水の生物の減少に大きな影響を及したことは広く知られている.
しかし何故本病の研究では取り上げられなかったのか不思議であった.なぜなら本病の原因であるジャガイモそうか病菌も土壌生物であるからである.一方,当初不思議に思ったのは多発土壌が淡色黒ぼく土(火山灰土壌の一種)に集中していたことである.
古い土壌学の教科書ではアロフェン質淡色黒ぼく土は「アルミニウムイオン活性が高い」を意味する「礬土性が高い」と書かれていたからである.もしそうであると淡色黒ぼく土のにおける本病の多発と矛盾する.恥ずかしいことに当時アロフェン質黒ぼく土では有害なアルミニウムイオンが出にくいとの研究がそのころ東北大学で進められていたことを知らなかった.このことを知ったのはフィリッピン・ピナツボ火山の火砕流地帯の環境回復のための国際学術研究で,東北大学の庄子貞雄先生グループと一緒に仕事をするようになってからである(Shoji et al. 1980).
そのように迷っているとき,助手(現教授)の吉田穂積先生が土壌のアルミニウム活性を測るにはどうすればよいかと質問してきた.それには置換酸度y1(現:交換酸度y1)を測ればよいこと,方法は云々であると答えたところ,早速何点かの土壌分析をしてくれた.そして驚くべき答えが返ってきた.「まったくアルミニウムが検出されない」と.これは想定外の結果であった.なぜ土壌学でアロフェン含有率調査結果もほとんどない時期に,アロフェン質黒ぼく土でアルミニウム活性が高いと間違った結果が広まったか不明であるが,われわれの研究はジャガイモそうか病の抑制因子の解明とこの対策の双方の研究を同時進行で動き出したのはそれからである.アロフェンとは粘土鉱物の一種で,火山性土壌では粒子が細かく風化しやすく,まだ結晶化していない粘土のことである.
交換酸度y1は第三代九州帝国大学総長大工原銀太郎博士が1910年に西ヶ原の農事試験場在職中に行われた土壌酸度定量のための事実上の国際標準になった画期的な仕事である(熊澤 1982, 伊藤 2001).交換酸度y1は畑土壌の土壌調査報告書には必ず記載されている調査項目である.農試にいるとき,周りの雰囲気ではこれがアルミニウム活性測定法であるとの意識は見当たらなかったが,これでは0.1N-KCl(0.1Nの塩化カリウム液)に交換されて出てくるAl3+ を0.1 N-NaOHで滴定し,水酸化アルミニウム(Al(OH)3)として沈殿させる単純な方法である.これには高度な分析機器も必要とせず,簡単にアルミニウム活性を測定する方法としてこれに勝る方法は見当たらなかった.なによりも膨大なデータが蓄積されていた.われわれはこれに賭けた.
3) 抑止土壌と多発土壌で異なる同一pHにおける交換酸度y1値
淡色黒ぼく土で交換酸度y1が上がらないことが明らかになったことから,土壌によってpHと交換酸度y1の間にどのような関係にあるか調べることにした.このため道立中央農試から全道の土壌調査報告書を借り受け,市町村ごとにpHと交換酸度y1の関係をパソコンで求めていった.予想ではたぶん地帯によってばらばらになり一定の関係はないだろうと思っていた.しかしこの予想は裏切られた.ジャガイモそうか病の抑止土壌と多発土壌で完全に分かれてきたのである.植物病理学会で発病の目安としていたpH 5.3における交換酸度y1は抑止土壌で7〜8であったが,淡色黒ぼく土の多発土壌ではその1/2にしかならなかった.そして多発土壌で抑止土壌と同じ値にするにはpHを4.5まで下げる必要があることがわかった(図1).pH 4.5とは水素イオン(H+)が10-4.5モルとのことであり,pH 5.3は10-5.3モルのことである.pHが1下がることは水素イオンのモル濃度で10倍になることである.
少しくどいが対数数字を自然数の直してみよう.するとpH 5.3は0.000005であり,pH 4.5は 0.000032となり,pH 5.3の水素イオンがpH4.5の6分の1以下であることが判る.これを見ても水素イオンがジャガイモそうか病の抑制因子では無いことが判る.
それでは何がpHを下げることで抑止因子として働くか.以前,土壌中金属イオンの溶解度を計算したことがある(山県・水野 1980).それによるとpH 4〜5付近で大きく変化する元素はアルミニウムイオンであることがわかった.それに交換酸度y1も一部には水素イオンの抽出であっても,交換性アルミニウムイオンを測定しているのである.
4) ほ場試験
図1からジャガイモそうか病多発土壌のアロフェン質淡色黒ぼく土では交換酸度y1が著しく低いことがわかり,多発土壌で交換酸度y1を抑止土壌のpH 5.3のレベルまで上げると本病害が抑制できるかどうか圃場実験を行った.そこで土壌pHの調整をどうするか問題となった.まず一つは水田苗床のpH低下に用いるイオウ,つぎに硫酸第一鉄である.これは北海道で甜菜のそうこん病対策として指導参考になった土壌pH低下資材である.もうひとつが硫酸アルミニウムである.
土壌pHを下げるには原理的に二つの方法がある.一つは水素イオン(H+)を添加する方法で,イオウはこれにあたる.もう一方は土壌水分から水酸イオン(OH-)を奪う方法である.硫酸第一鉄はこれにあたる.この中のFe2+が酸化されてFe3+になると土壌水分から水酸イオン(OH-)を奪い,あとには水酸化第二鉄(Fe(OH)3 + 3H+)として沈殿し,あとには水素イオンだけとなりpHが下がる.要するに土壌は酸性化する.
ただこの方法では,実際には問題がないのだが第一鉄イオン(Fe2+)が酸化されるとき,一時的に酸欠条件を作るので気になっていた.そこで考えたのは土壌でもっとも含有率の高い金属であるアルミニウムであった.硫酸アルミニウムは水道水の浄化にも使われていて,pHを下げる原理は鉄と同じである.このことは後で誤解を招き騒動の原因となった.
試験の結果は想定していたように明瞭であった(Mizuno and Yoshida 1993).硫酸第一鉄でも硫酸アルミニウムでも交換酸度y1の上がった処理区はジャガイモそうか病を抑制した.しかしイオウ区は効果が無かった.pHの低下が遅かったためである.施肥法で土壌pHを下げ,さらにアルミニウムイオンの活量を高める.
5)研究に対する批判
圃場試験で土壌pHを下げる目的で使用した硫酸アルミニウムとジャガイモそうか病の抑制因子がアルミニウムイオンであるとのわれわれの発表は予想外の批判や攻撃を受けた.特にファックスによる批判攻撃は科学的批判ではなく,感情的な批判であった.科学研究結果あるいは理論に対する対立や批判はこれまでも多くあった.しかしそれはあくまでも科学的根拠に基づく論争であるべきである.専門外の者が結果を出したからと云って排除するべきではない.確かに私は植物病理については素人であっても,これまで植物病理関係者に欠落していたのは土壌化学である.この分野で答えを出したまでである.
研究を面と向かって批判するのでもなく、科学的論議がなく,影にこもった陰湿な攻撃は,これが科学者のすることかと感じた.日本の科学界にはまだその様な陰湿なところが残っていて,若い優秀な研究者の成長を妨害しているのであろう.批判の中には社会的に悪者とされているアルミニウムがよいことをするはずがないとの思いがあったようだ.正直,これらの研究者はアルミニウムが土壌中最大の金属元素であり,土壌の粘土鉱物がケイ酸とアルミニウムでできていることを知らないのだろうかと疑いたくもなった.
そこで土壌pH低下の方法を新しく開発することにした.そこで目をつけたのが土壌の持つイオン交換能力と元素のイオン化傾向,活動度係数操作の利用である.これまで農業関係の化学では殆ど学習しない項目である.まず圃場においてジャガイモそうか病の発生は化成肥料と接触しているところで激しいことを観察していた.それにアルミニウムイオンはイオン強度の増大で著しく活量(実際の影響力)が低下することが気になっていた(山県・水野 1980).
ここで活動度係数について少し説明しよう.砂糖水など濃度を濃くしていくと凍結する温度の下がることはだれでもよくご存じであろう.植物などもその辺は承知していて,作物を寒さに当てると体内の糖濃度が上がり,美味しくなる.このことを応用したのが車などの不凍液である.ところが糖濃度を増大していくと直線的に凍結温度が下がると思っていたが実際にはそうではなかった.濃度を高めるほど凍結温度は低下するが,糖濃度が高まるほどその効率が低下することがわかった.その効率の悪くなる値を計算した化学者がいる.デバイとヒュックルである.この二人が出した効率の低下する割合の式を、デバイーヒュック理論という.この式によると多価イオンほど効率が悪くなりやすい.例を挙げると水素イオンやカリウムイオンは効率が余り落ちないが,三価のアルミニウムイオンは活動係数が落ちやすいことになる.このことはアルミニウムイオンの害を防除するには都合が良く,他のイオンの濃度を高めてやると,アルミニウムイオンの害は簡単に低下する事を意味する.このことは農学者の関心のないところであるが,この理論の応用は塩類障害の防止や有害なイオンの抑制には有効な手段となろう.
そこで目をつけたのが交換性水素イオンである.一般の土壌ではpH(H2O)に比較してpH(K2O)は1ほど低くなる.このことは土壌に吸着されている水素イオンが溶け出して土壌pHに反映するイオンの何倍も存在することを意味する.これを引き出して土壌pHを下げればよいと考えた.ただしジャガイモそうか病の激しいアロフェン質土壌ではpH(H2O)に比較してpH(K2O)との差はわずか0.3しかない.このことは交換性水素イオンの低いことを示している(注:pH(KCl)で出てくるのは水素イオンだけではない).
方法としてはpHを下げる場所にできるだけ陽イオンの肥料を加えず,周りを陰イオンにして(H+)を引き出すのである.そこで通常ジャガイモの播種期の施肥は畝条に三要素を同時施肥するが,これを畝条は硫安のみの施用とし,リン酸とカリは全面施肥としたのである.これによって,アンモニウムは硝酸化成によってマイナスイオンとなり,硫酸イオンと合わせて陰イオンが主体となり交換性水素イオンを引き出す.これによって塊茎の生育する畝条周辺のpHは三要素施肥に比べて塊茎肥大期のpHを0.3〜0.8低くすることに成功した(水野ほか 1995,1997, Mizuno et al. 2000).この方法によるpHの低下は収穫期には元に戻るので後作には影響は残らない.またこの方法ではイオン強度が低いのでアルミニウムイオンの活量を上げる効果もある(水野ほか 1995).
ジャガイモそうか病菌を同じアルミニウムイオン濃度でもイオン強度を下げることでpHが0.3ほど高いところで抑制できることがペトリ皿実験で確認できている.このようにこれまでまったく関心のもたれなかった化学理論の中にもジャガイモそうか病防止法のヒントが隠れている.
ジャガイモそうか病発生の激しいアロフェン質土壌ではこの下げ幅は小さく問題は残る.しかしジャガイモそうか病の抑制因子がアルミニウムイオンであることを明らかにすることと,この病害をどのようにして防除するかは別問題であり,ここに示した施肥法の工夫による土壌pH低下法はこれまで他の報告は見当たらないが,このような方法も対策に使える例として示した.今後よりよい方法の開発を期待したい.
6)火山灰土壌のアロフェン含有率
北海道の農地のほぼ1/3が黒ぼく土でありながら,火山灰土の粘土鉱物の研究は近堂(1967)による精力的な研究のみであった.これも粘土鉱物分析法の発展途上にあった時期とも重なって,この研究は道北に重点が置かれ,道南地方のデータが欠落し,またアロフェンの含有率も定性値での表示で定量値はない状態であった.一方,測定値はないにも関わらず,古い教科書による影響もあってアロフェン土壌はアルミニウムの活性の高い土壌と誤った考えが主流であった.
われわれの研究はアロフェンの定量とアルミニウム活性の調査から始まった(庫爾斑ほか 2003).これからジャガイモそうか病の多発土壌はアロフェン含有率が5%以上で,中には30%以上の黒ぼく土も存在した.このようにアロフェン含有率の高い土壌は樽前山,恵庭岳の火山灰ではTa-c, Ta-dおよびEn-aであり,道東ではMe-a, Km-a, Ma-e, f などであった.すなわち降灰堆積から千年以内の若い火山灰や噴火年代のわからないような古い古期火山灰では低いということであった.すなわちアロフェンになるまでの風化には1000年以上の年月を必要とし,またあまりにも古い火山灰では他の結晶性の粘土鉱物に移行し,アロフェンの含有率はおおむね2%以下であり,多くは1%以下であった.以上のようにジャガイモそうか病多発土壌と抑止土壌は交換酸度y1ばかりではなく,アロフェン含有率に歴然とした差異があった.
7)なぜアロフェンの高い土壌でアルミニウム活性は低下するのか
この問題もさきに述べたデバイーヒュッケル理論と同じで化学の分野である(水野 2016).ここで粘土鉱物について論ずる気はないが, 土壌の骨格である粘土の基本化合物はケイ酸アルミニウムである.難溶性の無機化合物の溶解度は溶解度積から計算することができる(水野・吉田 1994).すなわち,難溶性化合物の溶解度はその化合物の溶解度積の平方根である.そのためペアイオンの一方がもし10倍存在すると,対極のイオンは1/10しか溶解しないことになる.ジャガイモそうか病多発地帯の河川水のケイ酸含有率はきわめて高く,土壌中のケイ酸の活性が高いことを示している.このことからもアロフェン質土壌地帯のアルミニウム活性の低いことが推定される.無機化合物の溶解度を計算するための溶解度積の原理は土壌学でも多方面に応用が可能であり,ぜひ重金属汚染対策や効率的な肥料の利用研究に積極的に利用してほしいものである.
8)なぜジャガイモそうか病が近年増加したか
網走地方で昔は少なかったジャガイモそうか病がなぜ1960年代以降増加したか疑問のあるところである.まず疑ったのは農法の変化である.1960年代以前は馬耕中心の農法であり,プラウによる耕土深はせいぜい20cmであった.しかし1960年代になるとトラクタが入りだし,耕土深は30〜35cmと深くなる.アロフェン含有率の高い下層のB層まで耕起が可能になり,アロフェンが作土に混入するようになった.
そこで下層土の影響がどの程度あるか過去の作土と推定される耕地に隣接する林の土壌でアロフェン含有率の平均値を調べてみると,林のA層では3%, B層では12%,C層では5%であったが,現在の作土であるAp層は平均値が8%で最大17%にもなることがわかった.
一方,網走地方は屈斜路湖の火砕流地帯であり,長い年月の間これがガリ侵食によって傾斜地の多い農地であった.これはトラクタ農業にとって効率が悪いばかりでなく,危険な農地でもあった.そこで行われたのが切り土盛り土による耕地改良であった(図2).これで平坦で広大な農地が出現した.反面アロフェン含量の高い下層土が作土に入ることになった.アルミニウム過剰のないアロフェンの混入は網走地方の農業生産を高めたが,一方でジャガイモそうか病の増加も促進した.本題から外れるが土壌肥料学関係者には興味あると思われる話題をあげると,腐植の含まない灰のような土壌で驚くほど高い農業生産を上げていることである.このアルミニウム障害のない土壌の影響は一見に値する.
なお,農業統計によると,網走市の秋まき小麦の生産は,1972~1977年の平均値は394kg/10aであったが,2017~2021年の平均値は725kg/10aである.45年で収量は1.84倍になっている.
9)オーストラリアのジャガイモそうか病シンポジュームに出席して
2003年12月に放線菌の国際会議がメルボルンであり,タスマニア農業研究センターのジャガイモそうか病研究者の招きで農大の吉田穂積教授と出席した.国際会議の後,メルボルンやタスマニアの数箇所で開催されたジャガイモそうか病のシンポジュームに出席した.メルボルン郊外では巨大なポテトチップス工場を訪ねたが,原料の1割以上がジャガイモそうか病のために無駄になっているとの事であった.何万トンものジャガイモの1割以上である.その損害は計り知れないものがある.
ここでシンポジュームの詳細は省くが,このシンポジュームにはジャガイモそうか病の世界的なリーダーであるDr. R Loriaコーネル大学教授も同行した.後から知ったことであるが,Dr. Loria 教授は北海道の植物病理学会で招聘し,十勝の講演会でジャガイモそうか病の抑止因子はアルミニウムイオンであり,これはわれわれの仕事であることを初めて紹介してくれた方である.オーストラリアでは楽しい1週間を世界各地から集まった研究者と過ごした.
以上述べてきたわれわれの研究成果はアメリカの植物病理学会出版の教科書に詳しく紹介され,これによって欧文論文(Mizuno and Yoshida 1993, Mizuno et al. 1998a, 998b, 2000)のみならず,和文論文(水野・吉田 1994, 水野ほか 1995, 吉田ほか 1994)も世界各地に知られることになった(Shew et al. 2007).
10)おわりに
農業の変化と研究課題: 現在,若い農学研究者も研究課題の取得に苦しんでいると聞く.これは農学の世界では20~30年前とまったく異なった時代に入ったことと無縁ではなかろう.農業生産は大部分がマニュアル化され,マニュアルにしたがって行っていれば問題なく生産は行える.肥料にしても4,50年前のように苦土欠の発生やホウ素欠が出たりすることはない.それぞれの作物と地帯が決まればそこに使用する肥料も決まっているからである.一般的な土壌からはずれるローカル的あるいは気候的な変動によって微量要素の欠乏などが発生しても(水野 2015),それはごく限られた問題である.例えば比較的大面積発生したムギ類の銅欠乏でも一度対策を実施すれば30, 40年経過しても再発はなく(水野ほか 1981, Mizuno and Kamada 1982),頻繁に研究者の労を煩わすことはない.
したがって問題を土壌肥化学に限定してみても,ある種の要素の過剰や欠乏のような単純な問題の発生はきわめて少なくなっていると云える.その上現代では農業については農家の方が専門家になり,大学で農学を修めてきただけで関係機関に就職した研究者は農場管理にしても農作物の観察眼にしてもむしろ素人であることを自覚する必要がある.
どのような問題が残されているか?これにはジャガイモそうか病で示してきたような多要因が複雑に絡み合った問題である.ジャガイモそうか病についても当初は植物病理学で解決できると考えたであろうが,世界中の問題でありながら,1世紀もの長期にわたって研究は停滞した.これには土壌学の問題が絡んでいたが,ジャガイモそうか病にかかわる土壌学の問題もまたあまり研究の進んでいない分野または誤解されていた分野であった.すなわち土壌中のアルミニウムイオン溶解度に関わる問題で粘土鉱物学,溶解度や活量に関しては化学,それに本病がある年代から増加したのは農法の変化が関係しており,問題解決をより複雑にしていた.
予算と研究:日本の研究者の論文数が国際的に低下の傾向にあることが報じられている.かつてジャガイモそうか病の抑制因子を明らかにしたとき,これに対抗するため道立農試で高額研究費がこの研究についた.しかしその後大きな新しい成果が得られたとは聞いていない.農試に在籍しているとき,大面積にわたってコムギに不稔が発生したことがある.著者は翌年にはその原因と対策法を明らかにし,農協の指導員を通じて大規模に対策を実施した.それ以来不稔は発生していない.ところが農試では上司に呼び出され,「お前が早く問題解決をするから予算がとれない」とお叱りを受けた.研究成果に対する予算の効果は否定しないが,予算だけで研究成果が上がるというのは幻想であると思っている.
多方面の理論検討を怠るな:農業の問題は現場があるので長時間要すると考えがちである.著者の研究で成果の上がったものは圃場における実証試験に入る前にほとんど答えの出ていたものが多い.答えに至る時間はほぼ一週間である.それ以上要した課題は成功していない.この一週間という時間はジャガイモそうか病でも述べたように,考えられるすべてを動員して検討し,理論構成をしていく.著者は独学の期間が長かったので,多くの研究者のように特別の専門分野にこだわることはない.枕元にはメモ帖をおいて頭に浮かんだことを記録していく.そしてある瞬間に答えが出てくる.
もちろん研究には実験中ばかりではなく,日常生活の中でも偶然意外な発見に出会うことがある.これらは自分の専門外と見捨てないで大事にしたいものである.重要な分野に発展していく場合があるからだ.レントゲンのX線発見などはいい例である.研究のやり方は個人によって異なるので早く自分の研究スタイルを見出すことも重要であろう.
文 献
伊藤正夫 2001: 大工原銀太郎博士:人と業績寸描.肥料科学,23, 81~92
Freiser H and Fernando Q 著,藤永太一郎・関戸栄一訳 1967: イオン平衡.p. 20-23, 化学同人(東京)
Horsfall JG, Hollis JP and Jacobson HGM 1954: Calcium and potato scab. Phytopathology, 44, 19~24
熊澤喜久雄 1982: 大工原銀太郎博士と酸性土壌の研究.肥料科学,5, 9~46
水野直治・兼田裕光・鎌田賢一・目黒孝司・土岐和夫・後藤計二 1977: 北海道農用地の土壌成分.道立農試資料,8,1~62
水野直治・鎌田賢一・稲津 脩 1981: 三笠丘陵地帯のコムギの銅欠乏と不稔発生条件.土肥誌,52, 334~338
Mizuno N and Kamada K 1982: Method of judging copper deficiency from the
concentration of soluble copper in soils and the copper : iron ratio in wheat plants. Soil Sci. Plant Nutr., 28, 27-36
水野直治 1984: 水溶液の電気伝導率に対する各種イオン濃度の影響.土肥誌,55, 103~108
Mizuno N, Yoshida H 1993: Effect of exchangeable aluminium on the reduction of potato scab. Plant and Soil, 155/156, 505~508
水野直治・吉田穂積 1994a: 土壌pH,置換酸度y1とバレイショそうか病との相互関係.土肥誌,65, 27-23
水野直治・吉田穂積 1994b: バレイショ生産地帯における土壌と河川水中の可溶性ケイ酸とアルミニウム含有率の差異.土肥誌,65, 126-132
水野直治・吉田穂積・山本和弘 1995: ジャガイモそうか病菌発生に対するイオン強度および施肥法の影響.土肥誌,66, 639~645
水野直治・吉田穂積・牛木 純・但野利秋 1997: アロフェン質黒ぼく土におけるジャガイモそうか病発生に対する施肥法の影響.土肥誌,68, 686~689
Mizuno N, Yoshida H, Nanzyo M and Tadano T 1998a: Cemical characterization of conducive and suppressive soils for potato scab in Hokkaido, Japan. Soil Sci. Plant Nutr., 44, 289-295
Mizuno N, Nizamidin K, Yoshida H, Nanzyo M and Tadano T 1998b: Effects of deep plowing and “cutting and banking” practice on the concentration of water-soluble aluminum and allophane content in Andosols: Implication for recent incidence of potato common scab in Abashiri area. Soil Sci. Plant Nutr. , 44, 571-578
Mizuno N, Yoshida H and Tadano T 2000: Efficacy of single application ammonium sulfate in suppressing potato common scab. Soil Sci. Plant Nutr., 46, 611-616
水野直治 2015: コムギの銅欠乏を中心とした農作物の微量要素欠乏の特徴と対策.農園,90, 1012~1022
水野直治 2016: 農業技術に対する物理・化学の応用.農園,91, 1189-1203
Shew HD, Fichtner EJ and Benson DM 2007: Aluminum and Plant Disease. Mineral Nutrition and Plant Disease, p. 247-264, The American Phytopathological Society (St. Paul)
Shoji S, Saigusa M and Takahashi T 1980: Plant root growth in acid Andos0ls from northeastern Japan. Ⅰ.Soil properties and root growth of burdock , barley and orchard grass. Soil Sci., 130, 124-131
山県 登・水野直治 1980: フィールドの化学.p. 20, 産業図書(東京)
吉田穂積・水野直治・松浦英和 1997: 施肥法の改良によるジャガイモそうか病の発生抑制