水野直治先生 エッセー集 {2026年} 45~60
Date:2026.02.09
46. 高校の化学授業になぜ危険物の扱いが無いのか
2006年頃,基礎的な化学の本を書くために高校の化学の教科書を何冊か調べたことがある.驚いたことにいずれにも危険物質の取り扱いが出ていない.例えば一酸化炭素は身近で,ときどき犠牲者の出る有毒ガスである.化学でこれらの危険性を教えなかったら,どこで教えるのだろうか.化学反応式などは大学に入ってそれぞれの専門に行ったときに教えても十分である.一般の人で卒業後これらの化学反応式を覚えている人どのくらいいるだろうか.化学に関係のない職業についた人はほとんど忘れているだろう.
2025年1月に埼玉県八潮市で道路陥没事故があった時,下水道から発生する硫化水素の毒性が問題となった.テレビでの検討会でも,硫化水素の毒性について論議され,そこに大で学教授もいて,硫化水素の致死濃度が尋ねられたが,返答は無かった.わたくしは化学の本に,いくつかの有毒ガスの許容濃度や致死濃度などをまとめて「身を守る化学」として入れておいた.色々な危険物質のある現場での作業や滞在にはそれらの知識は必須なのである.文部科学省の役人や教科書調査官はそのような危険なところには行く機会がないので,考えが及ばないのかもしれない.もう少し現場を歩いて勉強してもらいたいものである.
このような危険物取り扱いばかりでない.我が国は地震大国,火山大国でもある.30年ほど前に1926年5月24日に十勝岳噴火による泥流で144名も亡くなる大災害が起きた跡地の調査した.ここでの調査は災害直後に当時北海道農事試験場にいた猪狩源三による調査しかなく,その後どの様になったか調べられていなかった.そのため網走の東京農業大学から学生と3年間,上富良野町に通い調査と現地試験を実施した.
驚いたことに,農家も農協の職員もイネの根が腐って成育の悪い原因が十勝岳泥流のためであることさえ知らなかった.それは泥流に含まれる膨大なイオウが,土壌の還元(酸素がなくなるため)により発生する硫化水素であることも知らず,さらにイオウの入っている硫安を肥料に使っていたのである.一般の水田でも硫安の使用は止められていることが伝わっていない.化学の教育に何が必要かもう少し考えてほしい.
現在も埼玉県八潮市では下水道の修復工事を進めているようだ.周りの家の自動車や家具その他の金属は硫化水素と反応して黒くなる被害がでている.これらは下水道から出てくる空気やガスを酸化鉄粉末の網目を通してから外に放出すると,大幅に硫化水素の被害は減少するはずである.硫化水素は酸化鉄と親和性が高いからである.
北海道にはこのような問題以外に火山爆発の危険性を抱えている,道内最大の火山灰降灰のある樽前山はここ1万年の間に4回の大規模噴火を繰り返してきた.この樽前山は1739年以降に噴火がなく,今後いつ噴火するかわからない.もし今後噴火があったら,大惨事は免れない.これらのことも地学教育などで十分警告しておく必要がある.日本最大の火山である阿蘇山も同じである.日本はヨーロッパなどとは異なるのである.教育ももっと風土にあったものであってほしい.
47. 「ピーアイチ」つてなんだろう
オーストラリアのパースで国際植物栄養学会議があった.そこでオーストラリアの研究者の発表があって,盛んに「ピーアイチ」と発音をしていた.未熟な英語話者にとっては聞き取れない.間もなくわかったことは「ピーエイチ」pHのことであった.オーストラリアやニュージーランドではこのpHだけでなく「day」も「ダイ」になるのだ.[ei]と発音するところが[ai]となることがわかった.
オーストラリアはイギリスの下町の人たちによって作られた国だという.それで思い出したのがオードリー・ヘップバーンの演じた下町の花売り娘イライザが言語学者のヒギンズ教授による発音のきびしい訓練によって,上流社会の女性に変貌する映画「マイ・フェア・レデイ」である.下町と上流社会ではずいぶん言葉も発音も違うらしい.日本では方言があっても,階層によって異なることはあまりない.
オーストラリアの国際会議のあった前の1992年に北海道の蛇紋岩地帯を見るために訪ねてきたニュージーランドのDr. RR ブルックス教授を夫婦で訪ねたことがある.そこで知ったのはブルックス教授の奥さんがニュージーランドの人たちにクイーンズ・イングリッシュを教えているとのことであった.ニュージーランドもまた下町の人たちによって開発された国だった.
ブルックス教授夫妻は元々イギリス出身で,イギリスのキュー植物園の園長も大学が同じだと言っていた.そのようなわけで,「マイ・フェア・レデイ」でも明らかなように,イギリスでは上流階級と下町とでは言語も随分違うことを知らされた.
このオーストラリアのパースを尋ねたとき,近くの西側の海岸まで行った.そこから海を眺め,イギリスから多くの囚人たちが遠い西の海の彼方からこのオーストラリアの大陸に渡ってきたのだと想像した.また不思議にこの海岸では日本の海岸の匂いである「海の匂い」がしなかった.海の臭いは海藻」の匂いとも言われるが本当だろうか.
48. 所変わればナキウサギも変わる
カナダのロッキー山脈に行ったことがある.最初トロントの近くのハミルトン郊外の自然公園をトロント大学の教授が案内してくれた.その公園はかなり大きく,ロックガーデンにも続いていた.このロックガデン近くには多数の品種の桜を植えているところであった.その造園業者は何年かしたらこの日本の桜公園を見に来てほしいと誘ってくれた.そんな遠いところまで桜を見に行くこともないが,世界の各地に桜の公園ができていくのは確かなようだ.
そこからトロントに戻り,飛行機でロッキーの入り口のカルガリーに向かった.4時間も飛行機に乗っていただろうか.大草原に飛行機は降りた.ロッキー山の登山口案内でレンタカーを借りて道路に出たが,道路交通が日本とは反対で,緊急のときは日本の時のクセで左にハンドルを切るクセに気が付いた.これでは危険であると思い,車を返しバスに切り替えた.ロッキーの案内所には元岩見沢の大学に来ていて,英会話を習った人がいて案内人をしていた.そこにはコテージを申し込んでいたのである.
バスに1時間ほど揺られて登山口の近くの(近くても1kmほど)バス停留場におり,重いバックを引きずって案内所にたどり着いた.その日はコテージに泊まり,翌日はロッキー山脈の下側のトレッキングである.案内人は2人で,案内してもらう人も2人であった.もう一人の男性は堺市から来たという.話を聞いてみると世界中を歩いているという.そこで金持ちかと聞いてみると,親の営む鉄工所で働いているとか.金がなくなると帰国するとのことであった.それでは語学が達者な為にあちこち行くのかと聞いたところ,どこの国の言葉もわからないからどこにでも行くのだとのことだった.
いざトレッキングである.歩いていると突然山道を駆け抜けていく男性がいた.考えられないような速さで.何かの競技に出場する訓練だという.また,狭い登山道路に30cm四方に草が広がっているのをあちこちに見られた.そこでこれはなにか案内人に聞いたところ,Pikerだという.ナキウサギのことである.ナキウサギが冬の食料の干し草を作っているのだとのことであった.
北海道大雪山の黒岳でナキウサギを観察したことがある.黒岳の山頂から旭岳にむかって進み,石室の方に下る手前の溶岩だらけの場所である.ここに座っているときである.やたらに小鳥の鳴き声に似た声が聞こえるではないか.しかしどこを見とも小鳥は見えない.やがてわかったのは岩の間にいたナキウサギの声であった.しかしここのナキウサギは干し草を作っている様子はなかった.回りから植物体を集めてそのまま岩の隙間に運んでいた.それが北海道のナキウサギの冬の食料なのだろう.
人間の食べ物が地域や国によって異なるように,ナキウサギの食料も国によって異なるとは考えもしなかった.自然界に学ぶことは沢山あるようだ.
49. 満州の思い出
昭和14年から16年11月まで満州にいたことがある.三歳から5歳までのときである.父は軍の主計(会計係)であった.われわれは満州の密山というところにいたが,密山には軍隊はなかったので,軍隊を見たことはなかった.父の勤め先は牡丹江で,時々馬でやってきた.その道中(道があったのかどうかは知らない)時々狼の群れに囲まれることもあったようだ.何しろわれわれの住んでいたところから開拓地は見えなかった.何しろ広い国である.
後からわかったことであったが,密山は中国残留孤児の最も多かったところである.牡丹江の北東部のロシアとの国境に近いところであった.どこまでも広がる大地には山が見当たらず,日本では想像のできない広さであった.我が家は軍の官舎であったが,広大な土地に5,6棟の官舎だけがあり,その他には店も民家も見当たらなかった.もちろん密山には日本の開拓民がいたようだが,眼にする範囲には全くそれらは見られなかった.
親父が空き地でキャベツを作ったことがある.大きなキャベツがとれたことを記憶している.開拓民が入ったとは知ることもなく,なぜこのような作物のできる土地に人がいないのだろうと思っていた.後に満州の大森林の虎がいた物語を読んだことがあったが,もちろん我々が行った当時はすでに森林はなく,元々草原だったのか,あるいは人が全部森林の樹木を切ってしまったのかは知らない.満州と隣接するシベリアには今でも虎がいるので,満州や朝鮮半島に虎がいても不思議ではない.しかしそれは森林があってこその話である.
日本に帰国する時,加藤清正の虎退治で有名な朝鮮半島も,樹のないところであったことを考えると,人が樹を切ってしまったのかもしれない.日本のように森林を保護することに熱心では無く,たぶん日本ほど植林をする国は無いのかもしれない.
満州にいた時,一度だけ魚釣りに連れて行ってもらったことがある.何も釣れなかったが,川の水が茶黄色に濁っていて,水の中は何も見えなかったのだけが印象に残っている.日本国内の川の水とは全く異なるのだ.黄河の川の水と同じなのだ.
春先は風の季節である.多分大きめの砂が飛んでいたのかもしれないが,子供の目には小石が飛んでいたように記憶している.木もない大草原である.風が吹き抜けていた記憶が強い.
子どもと母は昭和16年の11月末に日本に帰ってきた.釜山から福岡への乗船の時,われわれの乗る船の前の船が釜山沖の機雷で沈没した.5分くらいで沈没し,甲板にいた人たちだけが助かったという.沈没で荷物もお金もなくした一家族に母が一部を援助して親しくなったらしく,その様子を伺っていた.第二次戦争の開戦は昭和16年12月8日であるが,その前の11月末には始まっていたのである.この沈没のニュースで天童の祖父母は随分慌てたらしく.われわれ親子の乗った船が沈没したと思ったらしい.船は福岡には向かわず,舞鶴に接岸し,山形に帰国することとなった.その後,翌年父も満州の軍隊をやめ,札幌市に来た.日本が泥沼の戦争に入る直前の話である.
50 戦時中の札幌
昭和18年から20年の5月まで札幌にいた.小学校1〜3年生の時である.戦争真っ只中のことである.当然夜間の燈火規制も経験した.しかし札幌では苫小牧や室蘭,釧路などのように米軍の爆撃があったわけでもなく,平穏にすぎた.
札幌で印象に残っているのは5月の馬糞風と冬のばい煙である.当時荷物を運ぶのは自動車ではなく馬車が主体であった.馬は当然馬糞をするが,それらはみな道路に落としっぱなしであった.春になると,とりわけ5月は乾燥し風も強い.乾燥した馬糞は5月の風に吹かれて飛び散るのである.これが悪名高い札幌の馬糞風であった.一方,冬の燃料は石炭であった.雪は石炭の煤で汚れ,薄黒い雪になったことを記憶している.
札幌は北原白秋作詞,山田耕筰作曲の「この道」でアカシアが有名である.家の二階の窓からはアカシアの枝を取ることができた.白く香りの良いアカシア(ニセアカシア)は明治8年にアメリカから東京に入り,そこから明治14年(1881年)に札幌に入ったといわれる.アカシアの開花時期は6月中旬で北海道のもっとも過ごしやすい季節である.
札幌に来て間もなく,配給で10キロほどのニシンの配給があった.ニシンを玄関の前に無造作に置いていかれた時である.山形県天童出身の母にとっては驚きの出来事であった.現在のように冷蔵庫の発達していなかった時代,山形や天童などの内陸では生魚の食べる習慣が無かった.そのため母はニシンをどうしてよいかわからなかった.そこで同じ家に住んでいた家族にニシンを開いて身欠ニシンにすることを教わった.
もう一つ食べ物のことについて記憶に残ることは,一升ビンに3分搗きのコメを入れ,これを竹の棒で突くのである.これは小学1年生の自分の仕事であった.そんなものいくら突いたって白米になるわけがないのにやらされたことが今でも記憶に残っている.
札幌は昭和20年5月に離れ,現在の深川市になった旧音江村に行くことになった.父も招集で北千島のホロムシロに行ってしまい,札幌も空襲があるかもしれないとのことでの疎開であった.これも親しくしていた同居の方の勧めによるものであった.
音江に到着し,最初に出されたご飯に驚いた.真っ白なご飯であった.このような白い米を見たことが無かった.それに卵をかけたご飯ははじめてだった.札幌では気管の弱かった自分は年中風邪を引いていた.健康になったのは音江に行ってからである.大気汚染がいかに健康に悪いかわかった時期である.
一度札幌を離れてから再び訪れたのは昭和38年の2月である.北海道留萌支庁農務課から,道立農業試験場に転勤したためである.住宅は農業試験場種芸部の業務員の休憩場であった.場所は北大恵迪寮の南西で,現在は道立衛生研究所や道立工業試験場のあるところである.ここから琴似の農業試験場まで北16条通りを西に八軒を通り,琴似の農業試験場まで自転車で通ったのである.
真冬の晴れた朝は種芸部の上の空だけ,きれいの晴れあがり,札幌の中央部はばい煙で霞んでいるのがよくわかった.まだこの頃は家庭の燃料は石炭であった.そのころ北大のクラーク会館に行ったことがある.そこで真っ黒な小鳥を見つける.最初その小鳥がなにかわからなかった.よく見るとされはスズメだった.
メであった.おそらく今の子供はそのようなスズメを見ることはないであろう.札幌には昭和42年までおり,その後農試は北長沼に移転し,住まいは栗山町の職員住宅になりそのまま定住することになる.
51. 薬研のカジカ
公害問題の起こる前の話であったので,昭和43が44年だったかもしれない.当時,農業試験場ではどのような研究をするべきか,毎年農林省(当時は農林省だった)の役人を加えて東北・北海道ブロック会議というものを毎年各地で行なってきた.輪島の棚田である千枚田を見たのもその一環だった.青森では下北半島の先端にある恐山山地の近くの薬研(やげん)温泉で行われた.
なぜそんなことをいま思いだしたかというと,たまたま読んでいたエッセイ集に「かじかを飼う」というところがあったからである.それによるとカジカを見たこともない著者が子供のとき,父親といっしょに魚籠(ビク)をぶら下げて2時間も歩かされ,富士山から流れ出る渓流にたどり着く.そこでカエルのカジカを捕り,それを飼ってカジカの鳴き声を聞くという話である.
ブロック会議が薬研温泉であったとき,近くを流れる川幅が4~5mだったろうか,渓流を見に行った.このようなきれいな渓流が日本に残っていたのも驚きであったが,そこでうまれて初めてカジカカエルの声を聞いた.美しい声であった.その川にはやまべも沢山泳いでいるのを眼にすることができた.日本にもこのような美しい渓流のあることを知った.当時は至るところで公害問題が起こり,海の汚染ばかりではなく田舎の小河川でもゴミの捨て場になっていて汚染されていた.そのような時代にあって薬研の渓流とカジカカエルは驚きだった.
その後カジカカエルを見る機会は訪れなかった.訪れてきたのは公害問題である.川崎・四日市の大気汚染問題.富山の神通川のカドミウム汚染によるイタイイタイ病問題.これらの問題はカジカカエルとは真逆の問題であった.いま,カジカはどの程度残っているのだろうか.もう一度あの美しい声を聞きたいものである.
52 真冬の土壌調査
昭和45年の12月のことである.北海道の社会党の代議士が国会で爆弾発言をした.北海道にカドミウム汚染米があると.昭和45年12月に始まった公害国会である.カドミウム汚染米など富山の神通川流域の米のこととばかり思っていたので驚いた.北海道の後志支庁管内の足元であった.この地帯には重金属の鉱山があって,いつも5〜6月の稲は黄色になっているのは見かけていた.重金属汚染のあることはわかっていたが,カドミウム汚染まで想定していなかった.
国内で原子吸光光度計の使用が昭和42年以降全国に普及し,それまで分析定量の困難からだれも手を出さなかった重金属の分析が容易にできるようになった.カドミウムの定量もしかりである.そこで隣の研究室で汚染地帯の重金属の分析がなされていることは薄々わかっていた.しかしそこのデータが国会まで行くとは考えが及ばなかった.どこからこれらの問題が漏れたかその後もわからない.問題は其の後にやってきた.冬の土壌調査である.
まだ自家用車も十分普及していない時期である.当然スタットレスタイヤなどはない.年開け早々の土壌調査を化学部全員でやることになった.私の運転する車は全員で5人.雪道をかけて行った.仁木町から共和町の間にある峠道に入るときである.道路の左側にバスが停まっているではないか.雪道とカーブで先は20mほどしか見通せない.恐る恐るバスの後ろから車を出したところでいきなり前方からトラックが降りてきた.ハンドルを切ったところでエンストしてしまった.一瞬全員を死なしてしまうと頭に浮かんだ.
その時である.トラックの運転手がトラックをハンドルをにとって左側の雪の壁に突っ込み,後部をバスの先端に衝突させてトラックは止まった.ベテラン運転手の早業であった.損害はバスの先端の修理代だけですんだ.有難いことであった.
土壌調査は1週間ほどであったろうか.雪を掘っての土壌調査であった.やがて夏になり,調査は継続して行われた.地元の農家には「お前たちのために,酒米が売れなくなった」とのことで叱られながらの仕事だった.この地帯は良質な酒米の産地だった.
やがて汚染地帯をどうするか一部の幹部と何回か協議をしながら行われた.費用は原因者負担である.そこで汚染土壌を地下1mも下に埋め込み,上には非汚染土で改良する工事が実行された.この工事にはその土地を購入する以上の費用がかかった.汚染が判明してから工事が完了するまでに3年の歳月が流れた.
その後何が起きたか.以前叱られた農家を訪ねた.笑顔で迎えられた.「水田の用水路にモズクカニが現れた」と言って礼を言われた.汚染の本流の川にはアユが遡上していた.川の本流では役場の職員が休み時間に川に入り騒いでいた.鮭鱒が川に戻ってきていた.それで騒いでいたのだった.われわれの仕事の完了したことを実感した.
53. ゆきひかり
「ゆきひかり」は寒さに強く味の良いイネの品種である.「ゆきひかり」が出てくる前は「味の良い品種は寒さに弱い」というのが定説であった.「ゆきひがり」がどのようにして出てきたか話しをしよう.
私が稲作部に移る5年ほど前,稲作部の部長が「水野を稲作部によこせ」という話があった.しかしそのとき化学部ではカドミウム汚染米対策を中心として,重金属対策があり,そこを抜け出すことはできなかった.再びその話が出たのは5年後である.昭和55年の人事で稲作部に移動した.「優良米早期開発プロジェクト」が掲げられた事業の発足であった.それまでの「北海道の米は美味しくない」という定説を覆す目的もあった.そのとき稲作部にはデンプンの種類を分類して分析するオートアナライザーがすでに入っていて,コメの味の重要な部分はこのデンプンの種類によるところが大きいことを稲津研究員によって明らかにされていた.
すなわち,デンプンには二種類あって,それはアミロースとアミロペクチンである.前者のアミロースは直鎖型のデンプンで,これが多いとボロボロの粘らない米になる.これに対してアミロペクチンは沢山枝を持ったデンプンで,これはそれぞれの枝が絡み合って,粘りのある米となる.もち米のデンプンである.このような研究はこれまでなされていなかったのである.その後わかってきたのはこのデンプンの種類とイネの耐寒性の遺伝子が近いところにあり,そのため美味しいコメと耐寒性が相反するように現れていたということであった.
それではどのようなことで「ゆきひかり」が世に出てくる事になったのか.たしか昭和56年1月であったと記憶している.選抜育成中のイネの中にアミロースの低い系統があるとある研究員が言い出した.系統番号114だったろうか.45年も昔のことではっきり記憶がない.系統番号とは品種として認定される前の育成段階の番号である.この中でアミロースの低い系統があるという.品種までなるかどうかわからないがもう1年様子を見ようとなった.ところが昭和56年は稀に見る冷害年になった.そこで育種には全くの素人の自分に1年間この系統114が預けられることになった.
5月中旬に試験圃に植えられたイネは寒さのため.全く成長しなかった.普通は田植え後1週間もすればイネは成長始めるが,一ヶ月以上も植えたままであった.そのとき感じたのは一ヶ月も成長しなくてもイネは枯れないということを初めて知った.やがて6月20日ころになって少し気温が上がると,系統114号が成長を始めた.その時の平均気温は13.2℃であった.それから1週間後に他の系統や品種も成長を始めた.その時の平均気温は14.0℃であった.この0.8℃の差がこのイネの耐寒性となった.この差がどれほどの差であるかを知ったのは平成の大冷害であった.他のイネの不稔が広がったのに,このイネは結実していった.気温が何℃から成長するかなどは偶然テスト年が冷害年に当たったことで確認できた.普通年では確認できなかったことである.
もう一つの大きな特徴は肥料である.他の品種は10アール当たりのチッソ施肥量は8kgである.しかし「ゆきひかり」の施肥量は6kgである.それ以上施肥すると倒伏するのであった.茎が細く背の高い「ゆきひかり」は倒れやすいのである.このチッソ肥料の少なさは米中の蛋白質含有率を下げ,米の味を良くしていた.この蛋白質の低いさはアレルギー病の持つ子供のためのおコメとして重宝されている.「ゆきひかり」は優良米早期開発の第1号であり,また以上のような特徴をもったイネの品種である.このような特徴を持った品種はほかには見られない.
おそらく温度がいくらから成長するとか,施肥量をいくらにするかなど選抜する前に検討された品種は「ゆきひかり」だけであろう.普通,品種は育種家だけですすめられるからである.
平成の大冷害年は上富良野で十勝岳泥流の試験をしている時であった.この年は4月の末から寒い日が続いた.ピナツボ山の噴火での冷害である.北海道では何処も冷害でイネの結実は著しく低下していた.富良野盆地も例外ではなかった.その中で「ゆきひかり」だけは確実に登熟していたのを確認できた.わずか0.8℃の寒さに対する抵抗力の差がこれほど大きいとはそれまで考えなかった.すばらしい品種である.
54. 冷害と「日照りの夏に不作なし」の関係
2026年2月10日の朝日新聞の14ページに「日照りの夏に不作なし」ということで猛暑の続く近年では農業政策にもこの言葉が農水省の役人の頭で生きていたらしいことが出ていた.正直呆れてしまった.この言葉がいかにいい加減か先にも書いた.改めてイネの凶作を考えてみよう.
冷害による凶作には2つのタイプがある.その一つは曇天低温でイネの生育が遅れて不作になるタイプ,いわゆる遅延型冷害である.昭和56年の冷害がこれに当たる.曇天で気温が上がらず,平均気温の14℃以下の日が6月20日過ぎまで続いた.そしてこの年は典型的な遅延型冷害となった.農技研の松島省三(1957)によると,玄米の千粒重は籾殻の大きさによって決まるが,遅延型で成育が遅れた場合,籾殻の形成は高温の時になり籾殻がより大きくなる.そのためより登熟が困難になるといわれる.すなわち,ただでさえ遅れているのにその後の高温でより登熟が困難な籾殻になるというのだ.
このことはあまり理解されていないようだが,遅延型の冷害の時には籾殻の大きさの決まる時期に天候は回復する.多くの農家は「これで米は穫れる」と喜ぶ.しかしこの後登熟が回復することはない.松島氏が指摘した通りである.
もう一つが障害型冷害である.この典型的な例は確か昭和50年代のはじめにあった.正確な年代の記憶は抜けている.当時は耐冷品種「ゆきひかり」の出る前で,北海道の稲作で美味しいコメの品種は「キタヒカリ」であった.晴天の日が続き,イネは順調な成育をしていた.ところが7月22〜25日であったと記憶しているが,突然冷温がきた.オホーツク海に高気圧が張り出し,そこから冷たい空気が北海道に流れ込んできた.「キタヒカリ」にとっては花粉のできる大事な時期であった.これで「キタヒカリ」は全滅したのである.典型的な障害型冷害である.いくら順調な成育をしても,たった2,3日の低温が来ただけで壊滅的な障害を受けることがある.これが障害型冷害の恐ろしさある.
ここで「日照りの夏に不作なし」が当てにならない例を挙げよう.昭和31年のことである.毎日,日照りが続き,雨の降らない日が続いた.石狩川の本流をヒザ下の水位で歩いて渡れた年である.牧場で働いていた年で,牧草は伸びず,放牧中の牛に食べさせる草に困った.それでも気温は上がらず涼しい日が続いた.太陽は笠を被り(太陽が薄い雲に覆われたように)弱い日差しであった.「日照りの夏に不作なし」の言葉が崩れた年であった.当時は,ソ連は「鉄のカーテン」の向こう側で,ロシアの情報は入らなかった.後年,調べたところ,この年はシベリアの森林火災が続いていたとのことであった.北海道ばかりでなく,シベリアも干ばつが続き,そのため森林火災は止まらず,その煙は太陽光を遮っていたのである.
1993年の平成の大冷害はフィリッピン・ピナツボ山噴火の2年後である.大気中に放出された大量の火山灰の微粒子は成層圏まで達し,太陽の光の透過を妨害したために発生した冷害である.シベリヤ大森林の山火事,火山噴火による太陽光透過の妨害など,気候変動とは別の要因での冷害である.現在,高温年が続いているからといって必ずしも豊作が保証されているのではないことを知るべきである.山火事の大きな原因は乾燥である.「日照りの夏」は山火事の原因でもある.最近は日本でも頻繁に山火事が発生する様になった.これらがどのように米作りに影響するか農水省の役人ももっと勉強してほしいものである.
55.戦時中の小学校校長の訓話
私が小学校(国民尋常小学校)に入学したのは昭和18年4月である.確かこの年の5月にはアッツ島の玉砕が報じられ,すでに日本は負け戦に入っていた.当時,我が家の父は軍属で時計台の見える近くに住居があった.学校は現在の札幌市市役所のあるところにあった「札幌中央創成小学校」であった.月日は記憶にないがある時校長の訓話があった.それは今でも記憶に残る唯一の校長訓話であった.「米英は鬼である」と教えられていた時代である.その時の校長の話は「アメリカの子供も,イギリスの子供も一生懸命勉強している.だからあなた達も一生懸命勉強しなさい」というものであった.この時初めてアメリカ人もイギリス人も同じ人間であることを知った.この驚きは今の子供達には想像ができないだろう.この訓話を聞いた時は子供であったので感じなかったが,いま考えるとその時の校長は命懸けで話したものであったろう.この頃は学校に軍の将校がたびたび来ていて,学校を監視していた時代であった.いま考えても素晴らしい校長に恵まれたと思う.
いまでも戦時中の子供達の遊びはテレビ劇では戦争ごっこで表されるが,創成小学校時代はそのような遊びの経験もなく,また周りに見ることもなかった.これが校長などの影響かどうかはわからない.多分学校の雰囲気がそうさせたのかもしれない.
その時の校長の名は「若木勝蔵」であった.戦後,彼は参議院議員を2期務めている.参議院議員での仕事は知らない.しかし戦時中の困難な時期の発言から見て信念を貫いたことであったろう.それに比べると今回更迭された江藤農水大臣のような全く信念もなく,自分の利益でしか動かない人物がなぜ代議士になるのだろうと思うと情けなくなる.
(このエッセイは朝日新聞に発表したものである)
56. 降灰後堆積年数と火山灰の化学的特性
北海道の土壌調査は歴代の土壌調査研究員の努力によってほぼ終了している.しかしながらこれらの粘土鉱物組成とその働きについては明らかにされていない.以前,道立中央農業試験場の他の研究室で有珠山の火山灰地帯の特産作物である大福豆の研究がされていた事がある.それは有珠山の火山灰が降灰されてから10年以上経過した地帯では大福豆の成育が思わしくなく,生産された豆も品質もあまり芳しくないとのことであったと記憶している.その原因究明をされたが,結果は不明とのことであった.
一方,昭和43か44年ではなかったと記憶しているが,農林省で火山灰地の土地改良を大規模に進めようとしていた時がある.そのための現地試験のため喜茂別町を訪ねたときである.地元の農業改良普及所の所長が枠試験をしていて,火山灰土の下層土を使った区で,作物の成育がきわめて良好になることが示された.それが何によるか不明であった.その解明のため,あちこちで火山灰土の下層土の試験が行われた.結果は効果の出るところもあれば全く効果のないところもあり,その原因は不明であった.
以上のような火山灰土の下層土の問題はその後忘れられていた.そこに出てきたのが今回のジャガイモそうか病の発生とアロフェン質土壌の件である.どうやらこの問題も下層の土壌と密接に関係しているようだ.粘土鉱物のアロフェンは通常下層土にあるからだ.そこで始まったのが火山灰土の下層土の研究である.
酪農学園大学に移って間もなく,中国新疆ウイグルの農業大学から留学生がやってきた.クルバン・アニミテイである.彼は新疆農業大学の助教授であった.そこで彼の研究テーマも兼ねて,北海道の火山灰土の粘土鉱物を調べることとなった.北海道の中南部の火山灰地帯を二人で走り回り,火山灰を集め粘土鉱物を調べた.粘土鉱物の同定は東北大学のX線回析で行い,アロフェンの定量は化学分析によった.火山灰の判定は火山灰研究のベテランで知られ得る天野洋司氏に依頼した.その結果様々なことが明らかになってきた.アロフェンの含有率は降灰後,1000年以上経過すると現れる.ただ道東の雌阿寒岳などの火山灰は粒子が細かいためかもっと若い火山灰でもアロフェンの生成が認められた.北海道の主要な火山のテフラ中アロフェン含有率は図1のとおりである.

アロフェン質火山灰土の特性はアロフェンの含有率が5%以上で現れるが,同じ樽前山でもそれは降灰後1600年のTa-c と8900年前のTa-dに現れる.一方,有珠山ではアロフェンの含有率は2%以下であった.有珠火山灰の特徴はスメクタイトという粘土鉱物で,これを含むことである.そしてこのスメクタイトを含む火山灰は北海道の他の火山には存在しない.東北大学の庄子によればスメクタイトは塩基飽和度が低下すると,交換性アルミニウムが増加し強酸性になるのに対し,アロフェンでは酸性が弱く塩基飽和度が低くても粘土の陽イオン交換座にアルミニウムイオンが結合しないという対象的な粘土鉱物だという.このような説から,先に示した現場の現象を見ると,さまざまな現象の説明がつくのである.
なお,図2には火山灰別の水溶性アルミニウムの含有率を示した.これからも明らかなように,水溶性アルミニウム含有率はアロフェン含有率と対象的な値を示している.このようなことから土壌学ももっと粘土鉱物との関係を重視する必要があろう.今まではそれぞれ専門に分かれていて,お互いの相互関係を無視されてきた嫌いがある.現代は学問が専門分野に別れすぎ,様々な点で弊害が出てきているように感じるのは筆者だけだろうか.

57. 鴨 長明と遠い友人
行く川の流れは絶えずして,しかも本の水にあらず.よどみに浮かぶうたかたは,かつきえかつむすびて,久しくとどまる事なし.世の中にある人と住家と,またかくの如し.
この有名な鴨長明の詩を偶然見たのは,ワシントンDCの郊外のホトマック川支流の東屋であった.1980年代である.案内してくれたのはアメリカ農務省の研究所のチェニー博士である.実はこの時,東京大学のC博士ら3人とメリーランド州で行われる国際植物栄養学会議に出席するためにアメリカに出向いていた.
出迎えてくれたチェニー博士はその何年か前の大学院の学生の時,手紙で私にある論文の別刷りを請求してきて送ってやったことがあった.迎えに来てくれた飛行場から出て間もなく,その相手が私だったことに気が付き,その後の顛末を車中で話してくれた.論文を書いている時,その別刷りを見えなくしてお母さんと一緒に探したと
のことであった.彼と母親の二人の生活だったらしく,母親は農業をしていたとのことであった.もちろん彼も農業を手伝っていた時期があったらしい.
背も高く太っていて体重は150kgを超えていたのではなかったか.この大会の後,1993年の国際蛇紋岩生態学会議がカリフォルニア大学・デイビス校であったときも彼は出席し再会した.いま彼はどうしているだろう.鴨 長明の詩を偶然読んでいた本の中に見出して遠い昔の友人を思い出した.いま彼はどうしているだろうか.これまで多くの世界中の研究者の友人を持ってきた.
58. 宮沢賢治と猪狩源三
宮沢賢治の後半の人生を見た時,なぜあんなに石灰を農地にいれることにこだわるのかその理由がわからなかった.当時の農学から考えてそれほど石灰を入れることの重要性は無かったと思われるからである.
十勝岳泥流のことは以前このエッセイの41にも書いたが,十勝岳泥流の調査と対策に心血を注いだのは当時の北海道農事試験場の猪狩源三であった.猪狩源三は昭和のはじめ北海道を去るが,和歌山県の高等官僚になり,その後満州に転出したとばかり思っていた.ところが2024年にインターネットの検索をしているうちに,そのお孫さんの猪狩昌和さんと巡り会うことになった.それで猪狩源三のその後を尋ねたところ,北海道農事試験場から,岩手県農事試験場の場長に赴任していたことがわかった.丁度賢治が盛んに石灰の重要性を宣伝していた時期である.
昌和さんよると,場長が直接賢治を指導していたのではなく,科長か部長を間に挟んで指導していたらしい.これで納得できた.泥流の改良は,当時は石灰しか無かったのである.
しかも日本国内であれだけ多量のイオウが流れ込み,pH2にもなるほどの強酸性の土壌であった.その対策に直接携わってきた場長であった.日本国内にはこれほど石灰を必要としたのは十勝岳泥流地帯以外にはなかった.間接的でもこれが宮沢賢治を石灰の重要性に走らせた理由であった.賢治は素晴らしい師匠に巡り会っていたのである..
一方,水田土壌の場合,酸化鉄の施用が硫化水素を固定し,イネの秋落ちを防止することが可能になったのは昭和10年代の中頃であった.その発端は秋落ちの無い地帯の水田のある斜面の土壌が茶褐色であったことであり,反対に秋落ちのあった地帯の斜面の土壌は白っぽい土壌であることを発見したことで始まったという.酸化鉄の色は赤褐色の色であり,鉄を含まない土壌は白っぽいからである.青い土壌は鉄があっても二価の還元鉄である.すなわち青色の黏土は酸素欠乏土壌であり,地下工事などで青色の黏土が出てきたら要注意である.特に気圧の低い日は地下から酸素の含まない空気が上がって来るので,特に注意しなくてはならない.地下鉄の工事などで死亡事故の出た場所はこの青粘土の出たところである.土壌の色はいろいろな情報を与えてくれる.
59. 元雪印社長 佐藤 貢氏に教えを受ける
佐藤 貢氏とは恩師 高杉成道教授宅でよくお会いした.高杉成道教授のお父さんは北海道大学の英語の教授であったという.またご兄弟は北海道大学の理学部や医学部の教授を務めた学者一家であった.高杉成道教授の田鶴子婦人は雪印乳業株式会社と酪農学園の創立者である黒沢酉蔵氏の長女であった.私は高杉家でよく佐藤 貢氏と会い面識があった.佐藤 貢氏は札幌市の北1条西9丁目付近にあった宇都宮牧場で4歳くらいから遊び場として育ったという.
私は1980年代に「馬耕時代の農作業法」をまとめており,いくつかの不明な点を伺うため,時計台の東側にあった産業会館に佐藤 貢氏を尋ねた.最初に訊ねたことは名前の「貢」の読み方を一般には「みつぐ」と言われているが,これで良いのか伺った.すると佐藤氏は「みつぐ」は動詞なので「みつぎ」が正しいとのことであった.
北海道大学を卒業後,すぐ酪農を志してアメリカのオハイオ州立農科大学に4年間留学する.一方,雪印の前であった北海道製酪販売組合の本工場が札幌の苗穂に1924に建設された.これが雪印乳業に発展していく.工場長は帰国直後の佐藤 貢が任命される.工員も少ない中,工場長が自ら腕のはれるほど手回しのバターチャーンを回していたと佐藤 貢氏は語っていた.以下佐藤 貢氏による話である
でめんさんの語源は:農村では日雇い人を「でめんさん」と呼んでいるが,その語源は[Day Men」であるという.すなわち日雇い労働者を英語で呼んでいたわけである.以上のように北海道の農業には英語から来た言葉が結構多い.特に馬に対する命令語は本州の馬に対する命令語とは全く異なる.馬に「さがれ」と命令するときは「バイキ」とか「バック」という.英語から来ているのである.本州の「ハイドウドウ」とは言わない.このようなことは本や歴史を書く学者にはわからないかもしれないが,歴史として残して置きたい.
エドウイン・ダンの連れてきた家畜数は:一方,牛や羊もアメリカからエドウイン・ダンによって導入されるが,引用する文献によってその数はまちまちであった.そこでエドウイン・ダン顕彰会会長の佐藤 貢氏に伺うと,牛42頭,羊100頭であったという.これだけ多数の家畜をもう一人の助手と二人だけで,水も飼料も準備されていない貨車に乗せて,シカゴからサンスランシスコまで19日かけて輸送したという.この旅の厳しさはダンの言葉を借りると,「知っていたら1年分の報酬をもらっていても引き受けなかった」と言われるほど困難な旅であったという.このことは家畜をあつかった者なら誰でも想像できる困難な作業であったろう.
ダンがアメリカから輸送した牛はデボン種とダーハムショートホーン種であったという.デボン種はイギリス南部の毛色が紅褐色の在来種から改良された近代種で,ダーハムショートホーンは19世紀の牛肉のために飼育された牛であるという.
ダンは最初,家畜の輸送のみで帰国するつもりであったが,横浜に上陸してからケプロンに説得され,指導者として残ることになった.1875年の1年間は函館の七重で準備をし,1876年に札幌に移り,札幌に牧羊場,真駒内に牧牛場と設置し,日高の新冠に牧場を建設した.牧羊場は札幌の西としてしかわからないが,いまの札幌医大から円山までの間と推定されている.高杉教授に昭和33年に案内された黒澤酉蔵の牧場のあったところに近かったようだ.札幌農学校にウイリアム・S・クラークが着任したのは1876年の8月であり,ダンの方がクラークより先に来日している.北海道の農業はエドウイン・ダンの影響があまりにも大きい.
以上が佐藤 貢氏に伺ったことであった.氏が逝去し,雪印株式会社は大きくなり,工場長自らが腕をはらしてまでバターチャーンを回していたことを忘れた時,会社は潰れた.初代が会社を大きくし,2代目が楽しみ,3代目で潰した例はよくある話である.「親苦労する子楽する孫乞食する」との言葉もある.
60. 籾の大きさ,登熟と地質の関係
幼穂形成期追肥の効果:チッソは籾を大に登熟が遅れ,ケイ酸は籾を小に登熟を早める.地球温暖化で冷害も少なくなった現在に,イネの登熟の話でも無いかもしれないが,籾の登熟とケイ酸の問題を考えてみたい.これまでイネの登熟やコメの生産には多くの研究がなされてきた.そしてイネの茎の様々な成分と米の生産の関係も研究されてきた.しかしどうしたわけか肝心の米の育つ籾殻と米粒の成育に関する研究は欠落している.また,イネにはケイ酸が重要と言いながらなぜ重要なのか明らかにされてこなかった.一方,同じ品種でありながら,岩見沢より上川では千粒重が大きく登熟もよいがその理由は明らかにされてこなかった.それらのことが気になり籾殻と米粒の関係を調べた.その結果意外な関係がわかってきた.

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このような研究は予算もつかず,手間ひまもかかることから,籾殻を数えることや1粒,一粒籾を剥く作業は子どもたちに小遣いを渡して3年間ほど続けた結果面白いことがわかった.それでは籾殻のケイ酸と米粒の成長の関係を話そう.
最初は籾殻中のケイ酸含有率と籾殻の大きさの関係である.大きさは測れないので重さで表した.そこで籾殻1粒中ケイ酸をX,籾の重さをyとすると図1からその関係式は
y = 4.52 + 1.06 In x, r =0.980***
という関係式が得られた.驚くほど高い相関関係である.これから籾殻が大きくなるほどケイ酸含有率は高くなり,それは直線的でなく,籾が大きくなるほどケイ酸含有率は幾何級数的に高くなるのである.関係式から計算すると籾殻が3.55mg = 11.3%, 3.98mg=15.1%, 4.28mg= 18.7% である.すなわち,ケイ酸の補給の低いところでは籾が小さいことを示唆しているのである.
ケイ酸含有率と籾殻の大きさの関係はわかったが,それでは米の大きさである千粒重との関係はどうだろうか.図2にはその関係を示した.これからも分かる通り,千粒重はケイ酸含有率と相関係数が r=0.796*** と極めて高いことが理解できよう.千粒重20gでは籾殻中ケイ酸含有重は0.53mg/粒でよいが,千粒重が22gでは籾殻中ケイ酸含有重は0.89mg/粒となる.

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以上のように玄米千粒重は籾殻中のケイ酸含有率に支配されていることがわかった.それで研究者の中にはケイ酸がデンプンを籾殻に運んでいると考えている方もいるが,それは無いだろう.それでは籾殻中ケイ酸含有率は何によって変化するのか?図3にも示したように,籾殻重は籾殻中ケイ酸含有率と高い正の相関である.そしてその籾殻中ケイ酸含有率は茎葉中ケイ酸含有率と高い相関がある(図4).したがって茎葉中ケイ酸含有率の低いイネでは籾殻中ケイ酸含有率が高くなることはなく,例えば岩見沢の北海道中央農業試験場のイネの茎葉中ケイ酸含有率は5%前後であるのに対し,上川地方のイネの茎葉中ケイ酸含有率は10~13%もあることはよく知られている.
一方,7月末ころに低温が来る障害型冷害年にはよく割籾が問題となる.そこでなぜ割籾がでるのか,これに対して言われてきたことは“米粒が大きくなりすぎたから“というのが常識であった.そこで割籾の発生の品種比較をしてみた.すると割籾発生の高い品種は籾殻重の軽い品種であることがわかった.一方,一つの穂で籾の大きさを調べてみると,先のほうが大きく,下部に行くほど籾は小さくなることがわかった.そこで割籾を見ると下部の籾ほど割籾の発生の多いこと,また割籾の米粒の千粒重はむしろ正常籾の千粒重より低い事もわかってきた.これまで常識的に言われていたことと違うのである.その関係式はXが割籾で,yが正常籾のとき y = 14.3 + 0.38 となり, r=0.965*** である.割籾の千粒重は21gとすると,正常籾の千粒重は22.3gであり,割籾の千粒重が22gのとき,正常籾の千粒重は22.66gで,正常籾の米粒の千粒重の方が大きくなる.
図5には発育停止籾と登熟籾のケイ酸含有率の違いを示した.これからも分かる通り,発育停止籾は登熟籾に比べてケイ酸含有率の低いことがわかる.一方,籾殻のケイ酸含有率が正常籾,割籾によってどのような関係にあるか図6に示す.これからも分かる通り同じ籾殻重の場合,籾殻のケイ酸含有率は割籾の方が圧倒的に高いことが明らかになった.
以上は米の千粒重,その米粒が育つ子宮とも言える籾殻とケイ酸の関係を調べた結果を示した.そこから見えてきたのはこれまで調べもしないで常識となっていたことと現実は異なることが多くみられた.イネの籾殻のケイ酸含有率はなによって支配されているか.当然可溶性ケイ酸である.わかりやすいのは河川水中のケイ酸含有率であろう.これらも全道で調べているが,十勝東部から網走方面ではSiO2として40ppmを超えるのに対し,上川地方では15~20ppm, 空知北部では10~15ppm, 空知中部〜南部では5〜10ppmであり,泥炭地は5ppm以下である.千歳川は通常27ppmと高い.これらの差異がイネのケイ酸含有率に反映しており,それが米の千粒重や登熟の差異になっているのである.
地質的には火山灰土がもっともケイ酸の溶解度が高く,ついで砂地であり,黏土地は低い.最も低いのは泥炭地である.砂地や粗い小石の川を水源とする灌漑水を利用する水田では秋の稔りが良く,その理由はここにあるのだろう.
この籾のケイ酸含有率に関する研究で感じたことは,イネが幼穂形成期までの水田土壌のケイ酸供給力を考慮して,籾の大きさを決定しているのではということである.そのため水田に供給するケイ酸をケイカルで10アール当たり100kg以上も耕起前に施用する指導をしているが,その割には効果があるとは感じられない.
それは春先施用したケイカルの効果は施用後に濃度が低下するためと考えられる.それに対して幼穂形成期ころの施用はわずか40kg/10aほどでも随分効果が高い.このことは全国的な試験でも明らかだった(昭和63,64年の農林水産省主催の試験).このことはケイ酸資材の施用時期がいかに重要か示している.
これは割籾発生原因の応用であるが,だれも籾殻とケイ酸の研究をしていないので理解は出来ていなかったようだ.幼穂形成期を過ぎて籾殻が成長する時期のケイ酸の供給は籾殻の大きさを抑制し,小さい籾殻となり登熟が早まる.これに対してチッソの追肥は籾殻の成長を助長し登熟期を遅らせる.籾殻の成長に対するケイ酸とチッソの働きは真逆の関係にあることがこの研究で明らかになった(図7).一般の研究ではそこの理解が欠落している.
先にも示したが,一つの穂で見た場合,先に出穂した籾が大きく,下の方が小さい.これは遅れて出穂しても登熟が同じになるシステムではないだろうか.また籾殻中ケイ酸含有率は出穂期は登熟期の1/2程度であるが,しかし遅れて出穂した下部出穂期のケイ酸含有率は先に出穂した穂の下部より含有率が高い.ケイ酸含有率が登熟を決定しているとしたら,出穂にかなりの差があっても,全体的には登熟にあまり差がなく揃った状態になり,出穂の差が収穫に影響しない.これは選抜の結果か,イネ本来の性質かどうかは不明である.