水野直治先生 エッセー集 {2026年} 45~54
Date:2026.02.09
46. 高校の化学授業になぜ危険物の扱いが無いのか
2006年頃,基礎的な化学の本を書くために高校の化学の教科書を何冊か調べたことがある.驚いたことにいずれにも危険物質の取り扱いが出ていない.例えば一酸化炭素は身近で,ときどき犠牲者の出る有毒ガスである.化学でこれらの危険性を教えなかったら,どこで教えるのだろうか.化学反応式など大学に入ってそれぞれの専門に行ったときに教えても十分である.一般の人で卒業後これらの化学反応式を知っているのはどのくらいいるだろうか.化学に関係のない職業についた人はほとんど忘れているだろう.
2025年1月に埼玉県八潮市で道路陥没事故があった時,下水道から発生する硫化水素の毒性が問題となった.テレビでの検討会でも,硫化水素の毒性について論議され,そこに大学教授もいて,硫化水素の致死濃度が尋ねられたが,返答は無かった.わたくしは化学の本に,いくつかの有毒ガスの許容濃度や致死濃度などをまとめて「身を守る化学」として入れておいた.色々な危険物質のある現場での作業やあるいは滞在にはそれらの知識は必須なのである.文部科学省の役人はそのような危険なところには行くことがないので,考えが及ばないのかもしれない.もう少し現場を歩いて勉強してもらいたいものである.
このような危険物取り扱いばかりでない.我が国は地震大国,火山大国でもある.30年ほど前に1926年5月24日に十勝岳噴火による泥流で144名も亡くなる大災害が起きた跡地の調査した.ここの調査は災害直後に当時北海道農事試験場にいた猪狩源三による調査しかなく,その後どの様になったか調べられていなかった.そのため網走の東京農大から学生と3年間,上富良野町に通い調査と現地試験を実施した.
驚いたことに,農家も農協の職員もイネの根が腐って成育の悪い原因が十勝岳泥流のためであることさえ知らなかった.それは泥流に含まれる膨大なイオウが,土壌の還元(酸素がなくなるため)により発生する硫化水素であることも知らず,さらにイオウの入っている硫安を肥料に使っていたのである.一般の水田でも硫安の使用は止められていることが伝わっていない.化学の教育に何が必要かもう少し考えてほしい.
現在も埼玉県八潮市では下水道の修復工事を進めているようだ.回りの家の自動車や家具その他の金属は硫化水素と反応して黒くなる被害がでている.これらは下水道から出てくる空気やガスを酸化鉄粉末の網目を通してから外に放出すると,大幅に硫化水素の被害は減少するだろう.硫化水素は酸化鉄と親和性が高いからである.
北海道にはこのような問題以外に火山爆発の危険性を抱えている,道内最大の火山灰降灰のある樽前山はここ1万年の間に4回の大規模噴火を繰り返してきた.この樽前山は1739年以降に噴火がなく,今後いつ噴火するかわからない.もし今後噴火があったら,大惨事は免れない.これらのことも地学などで十分警告しておく必要がある.日本最大の火山である阿蘇山も同じである.日本はヨーロッパなどとは異なるのである.教育ももっと風土にあったものであってほしい.
47. 「ピーアイ」つてなんだろう
オーストラリアのパースで国際植物栄養学会議があった.そこでオーストラリアの研究者の発表があって,盛んに「ピーアイ」と発音をしていた.未熟な英語話者にとっては聞き取れない.間もなくわかったことは「ピーエイチ」pHのことであった.オーストラリアやニュージーランドではこのpHだけでなく「day」も「ダイ」になるのだ.[ei]と発音するところが[ai]となることがわかった.
オーストラリアはイギリスの下町の人達によって作られた国だという.それで思い出したのがオードリー・ヘップバーンの演じた下町の花売り娘イライザが言語学者のヒギンズ教授による発音のきびしい訓練によって,上流社会の女性に変貌する映画「マイ・フェア・レデイ」である.下町と上流社会ではずいぶん言葉も発音も違うらしい.日本では方言があっても,階層によって異なることはあまりない.
オーストラリアの国際会議のあった前の1992年に北海道の蛇紋岩地帯を見るために訪ねてきたニュージーランドのDr. RR ブルックス教授を夫婦で訪ねたことがある.そこで知ったのはブルックス教授の奥さんがニュージーランドの人たちにクイーンズ・イングリッシュを教えているとのことであった.ニュージーランドもまた下町の人たちによって開発された国だった.
ブルックス教授夫妻は元々イギリス出身で,イギリスのキュー植物園の園長も大学が同じだと言っていた.そのようなわけで,「マイ・フェア・レデイ」でも明らかなように,イギリスでは上流階級と下町とでは言語も随分違うことを知らされた.
このオーストラリアのパースにいったとき,近くの西側の海岸まで行った.そこから海を眺め,イギリスから多くの囚人たちが遠い西の海の彼方からこのオーストラリアの大陸に渡ってきたのだと想像した.また不思議にこの海岸では日本の海岸の匂いである「海の匂い」がしなかった.海の臭いは海藻」の匂いとも言われるが本当だろうか.
48. 所変わればナキウサギも変わる
カナダのロッキー山脈に行ったことがある.最初トロントの近くのハミルトン郊外の自然公園をトロント大学の教授が案内してくれた.その公園はかなり大きく,ロックガーデンにも続いていた.このロックガデン近くには多数の品種の桜を植えているところであった.その造園業者は何年かしたらこの日本の桜公園を見に来てほしいと誘ってくれた.そんな遠いところまで桜を見に行くこともないが,世界の各地に桜の公園ができていくのは確かなようだ.
そこからトロントに戻り,飛行機でロッキーの入り口のカルガリーに向かった.4時間も飛行機に乗っていただろうか.大草原に飛行機は降りた.ロッキー山の登山口案内でレンタカーを借りて道路に出たが,道路交通が日本とは反対で,緊急のときは日本の時のクセで左にハンドルを切るクセに気が付いた.これでは危険であると思い,車を返しバスに切り替えた.ロッキーの案内所には元岩見沢の大学に来ていて,英会話を習った人がいて案内人をしていた.そこにはコテージを申し込んでいたのである.
バスに1時間ほど揺られて登山口の近くの(近くても1kmほど)バス停留場におり,重いバックを引きずって案内所にたどり着いた.その日はコテージに泊まり,翌日はロッキー山脈の下側のトレッキングである.案内人は2人で,案内してもらう人も2人であった.もう一人の男性は堺市から来たという.話を聞いてみると世界中を歩いているという.そこで金持ちかと聞いてみると,親の営む鉄工所で働いているとか.金がなくなると帰国するとのことであった.それでは語学が達者な為にあちこち行くのかと聞いたところ,どこの国の言葉もわからないからどこにでも行くのだとのことだった.
いざトレッキングである.歩いていると突然山道を駆け抜けていく男性がいた.考えられないような速さで.何かの競技に出場する訓練だという.また,狭い登山道路に30cm四方に草が広がっているのをあちこちに見られた.そこでこれはなにか案内人に聞いたところ,Pikerだという.ナキウサギのことである.ナキウサギが冬の食料の干し草を作っているのだとのことであった.
北海道大雪山の黒岳でナキウサギを観察したことがある.黒岳の山頂から旭岳にむかって進み,石室の方に下る手前の溶岩だらけの場所である.ここに座っているときである.やたらに小鳥の鳴き声に似た声が聞こえるではないか.しかしどこを見とも小鳥は見えない.やがてわかったのは岩の間にいたナキウサギの声であった.しかしここのナキウサギは干し草を作っている様子はなかった.回りから植物体を集めてそのまま岩の隙間に運んでいた.それが北海道のナキウサギの冬の食料なのだろう.
人間の食べ物が地域や国によって異なるように,ナキウサギの食料も国によって異なるとは考えもしなかった.自然界に学ぶことは沢山あるようだ.
49. 満州の思い出
昭和14年から16年11月まで満州にいたことがある.三歳から5歳までのときである.父は軍の主計(会計係)であった.われわれは満州の密山というところにいたが,密山には軍隊はなかったので,軍隊を見たことはなかった.父の勤め先は牡丹江で,時々馬でやってきた.その道中(道があったのかどうかは知らない)時々狼の群れに囲まれることもあったようだ.何しろわれわれの住んでいたところから開拓地は見えなかった.何しろ広い国である.
後からわかったことであったが,密山は中国残留孤児の最も多かったところである.牡丹江の北東部のロシアとの国境に近いところであった.どこまでも広がる大地には山が見当たらず,日本では想像のできない広さであった.我が家は軍の官舎であったが,広大な土地に5,6棟の官舎だけがあり,その他には店も民家も見当たらなかった.もちろん密山には日本の開拓民がいたようだが,眼にする範囲には全くそれらは見られなかった.
親父が空き地でキャベツを作ったことがある.大きなキャベツがとれたことを記憶している.開拓民が入ったとは知ることもなく,なぜこのような作物のできる土地に人がいないのだろうと思っていた.後に満州の大森林の虎がいた物語を読んだことがあったが,もちろん我々が行った当時はすでに森林はなく,元々草原だったのか,あるいは人が全部森林の樹木を切ってしまったのかは知らない.満州と隣接するシベリアには今でも虎がいるので,満州や朝鮮半島に虎がいても不思議ではない.しかしそれは森林があってこその話である.
日本に帰国する時,加藤清正の虎退治で有名な朝鮮半島も,樹のないところであったことを考えると,人が樹を切ってしまったのかもしれない.日本のように森林を保護することに熱心では無く,たぶん日本ほど植林をする国は無いのかもしれない.
満州にいた時,一度だけ魚釣りに連れて行ってもらったことがある.何も釣れなかったが,川の水が茶黄色に濁っていて,水の中は何も見えなかったのだけが印象に残っている.日本国内の川の水とは全く異なるのだ.黄河の川の水と同じなのだ.
春先は風の季節である.多分大きめの砂が飛んでいたのかもしれないが,子供の目には小石が飛んでいたように記憶している.木もない大草原である.風が吹き抜けていた記憶が強い.
子どもと母は昭和16年の11月末に日本に帰ってきた.釜山から福岡への乗船の時,われわれの乗る船の前の船が釜山沖の機雷で沈没した.5分くらいで沈没し,甲板にいた人たちだけが助かったという.沈没で荷物もお金もなくした一家族に母が一部を援助して親しくなったらしく,その様子を伺っていた.第二次戦争の開戦は昭和16年12月8日であるが,その前の11月末には始まっていたのである.この沈没のニュースで天童の祖父母は随分慌てたらしく.われわれ親子の乗った船が沈没したと思ったらしい.船は福岡には向かわず,舞鶴に接岸し,山形に帰国することとなった.その後,翌年父も満州の軍隊をやめ,札幌市に来た.日本が泥沼の戦争に入る直前の話である.
50 戦時中の札幌
昭和18年から20年の5月まで札幌にいた.小学校1〜3年生の時である.戦争真っ只中のことである.当然夜間の燈火規制も経験した.しかし札幌では苫小牧や室蘭,釧路などのように米軍の爆撃があったわけでもなく,平穏にすぎた.
札幌で印象に残っているのは5月の馬糞風と冬のばい煙である.当時荷物を運ぶのは自動車ではなく馬車が主体であった.馬は当然馬糞をするが,それらはみな道路に落としっぱなしであった.春になると,とりわけ5月は乾燥し風も強い.乾燥した馬糞は5月の風に吹かれて飛び散るのである.これが悪名高い札幌の馬糞風であった.一方,冬の燃料は石炭であった.雪は石炭の煤で汚れ,薄黒い雪になったことを記憶している.
札幌は北原白秋作詞,山田耕筰作曲の「この道」でアカシアが有名である.家の二階の窓からはアカシアの枝を取ることができた.白く香りの良いアカシア(ニセアカシア)は明治8年にアメリカから東京に入り,そこから明治14年(1881年)に札幌に入ったといわれる.アカシアの開花時期は6月中旬で北海道のもっとも過ごしやすい季節である.
札幌に来て間もなく,配給で10キロほどのニシンの配給があった.ニシンを玄関の前に無造作に置いていかれた時である.山形県天童出身の母にとっては驚きの出来事であった.現在のように冷蔵庫の発達していなかった時代,山形や天童などの内陸では生魚の食べる習慣が無かった.そのため母はニシンをどうしてよいかわからなかった.そこで同じ家に住んでいた家族にニシンを開いて身欠ニシンにすることを教わった.
もう一つ食べ物のことについて記憶に残ることは,一升ビンに3分搗きのコメを入れ,これを竹の棒で突くのである.これは小学1年生の自分の仕事であった.そんなものいくら突いたって白米になるわけがないのにやらされたことが今でも記憶に残っている.
札幌は昭和20年5月に離れ,現在の深川市になった旧音江村に行くことになった.父も招集で北千島のホロムシロに行ってしまい,札幌も空襲があるかもしれないとのことでの疎開であった.これも親しくしていた同居の方の勧めによるものであった.
音江に到着し,最初に出されたご飯に驚いた.真っ白なご飯であった.このような白い米を見たことが無かった.それに卵をかけたご飯ははじめてだった.札幌では気管の弱かった自分は年中風邪を引いていた.健康になったのは音江に行ってからである.大気汚染がいかに健康に悪いかわかった時期である.
一度札幌を離れてから再び訪れたのは昭和38年の2月である.北海道留萌支庁農務課から,道立農業試験場に転勤したためである.住宅は農業試験場種芸部の業務員の休憩場であった.場所は北大恵迪寮の南西で,現在は道立衛生研究所や道立工業試験場のあるところである.ここから琴似の農業試験場まで北16条通りを西に八軒を通り,琴似の農業試験場まで自転車で通ったのである.
真冬の晴れた朝は種芸部の上の空だけ,きれいの晴れあがり,札幌の中央部はばい煙で霞んでいるのがよくわかった.まだこの頃は家庭の燃料は石炭であった.そのころ北大のクラーク会館に行ったことがある.そこで真っ黒な小鳥を見つける.最初その小鳥がなにかわからなかった.よく見るとされはスズメだった.
おそらく今の子供はそのようなスズメを見ることはないであろう.札幌には昭和42年までおり,その後農試は北長沼に移転し,住まいは栗山町の職員住宅になりそのまま定住することになる.
51. 薬研のカジカ
公害問題の起こる前の話であったので,昭和43が44年だったかもしれない.当時,農業試験場ではどのような研究をするべきか,毎年農林省(当時は農林省だった)の役人を加えて東北・北海道ブロック会議というものを毎年各地で行なってきた.輪島の棚田である千枚田を見たのもその一環だった.青森では下北半島の先端にある恐山山地の近くの薬研(やげん)温泉で行われた.
なぜそんなことをいま思いだしたかというと,たまたま読んでいたエッセイ集に「かじかを飼う」というところがあったからである.それによるとカジカを見たこともない著者が子供のとき,父親といっしょに魚籠(ビク)をぶら下げて2時間も歩かされ,富士山から流れ出る渓流にたどり着く.そこでカエルのカジカを捕り,それを飼ってカジカの鳴き声を聞くという話である.
ブロック会議が薬研温泉であったとき,近くを流れる川幅が4~5mだったろうか,渓流を見に行った.このようなきれいな渓流が日本に残っていたのも驚きであったが,そこでうまれて初めてカジカカエルの声を聞いた.美しい声であった.その川にはやまべも沢山泳いでいるのを眼にすることができた.日本にもこのような美しい渓流のあることを知った.当時は至るところで公害問題が起こり,海の汚染ばかりではなく田舎の小河川でもゴミの捨て場になっていて汚染されていた.そのような時代にあって薬研の渓流とカジカカエルは驚きだった.
その後カジカカエルを見る機会は訪れなかった.訪れてきたのは公害問題である.川崎・四日市の大気汚染問題.富山の神通川のカドミウム汚染によるイタイイタイ病問題.これらの問題はカジカカエルとは真逆の問題であった.いま,カジカはどの程度残っているのだろうか.もう一度あの美しい声を聞きたいものである.
52 真冬の土壌調査
昭和45年の12月のことである.北海道の社会党の代議士が国会で爆弾発言をした.北海道にカドミウム汚染米があると.昭和45年12月に始まった公害国会である.カドミウム汚染米など富山の神通川流域の米のこととばかり思っていたので驚いた.北海道の後志支庁管内の足元であった.この地帯には重金属の鉱山があって,いつも5〜6月の稲は黄色になっているのは見かけていた.重金属汚染のあることはわかっていたが,カドミウム汚染まで想定していなかった.
国内で原子吸光光度計の使用が昭和42年以降全国に普及し,それまで分析定量の困難からだれも手を出さなかった重金属の分析が容易にできるようになった.カドミウムの定量もしかりである.そこで隣の研究室で汚染地帯の重金属の分析がなされていることは薄々わかっていた.しかしそこのデータが国会まで行くとは考えが及ばなかった.どこからこれらの問題が漏れたかその後もわからない.問題は其の後にやってきた.冬の土壌調査である.
まだ自家用車も十分普及していない時期である.当然スタットレスタイヤなどはない.年開け早々の土壌調査を化学部全員でやることになった.私の運転する車は全員で5人.雪道をかけて行った.仁木町から共和町の間にある峠道に入るときである.道路の左側にバスが停まっているではないか.雪道とカーブで先は20mほどしか見通せない.恐る恐るバスの後ろから車を出したところでいきなり前方からトラックが降りてきた.ハンドルを切ったところでエンストしてしまった.一瞬全員を死なしてしまうと頭に浮かんだ.
その時である.トラックの運転手がトラックのハンドルを左に切って左側の雪の壁に突っ込み,後部をバスの先端に衝突させてトラックは止まった.ベテラン運転手の早業であった.損害はバスの先端の修理代だけですんだ.有難いことであった.
土壌調査は1週間ほどであったろうか.雪を掘っての土壌調査であった.やがて夏になり,調査は継続して行われた.地元の農家には「お前たちのために,酒米が売れなくなった」とのことで叱られながらの仕事だった.この地帯は良質な酒米の産地だった.
やがて汚染地帯をどうするか一部の幹部と何回か協議をしながら行われた.費用は原因者負担である.そこで汚染土壌を地下1mも下に埋め込み,上には非汚染土で改良する工事が実行された.この工事にはその土地を購入する以上の費用がかかった.汚染が判明してから工事が完了するまでに3年の歳月が流れた.
その後何が起きたか.以前叱られた農家を訪ねた.笑顔で迎えられた.「水田の用水路にモズクカニが現れた」と言って礼を言われた.汚染の本流の川にはアユが遡上していた.役場の傍を流れる川の本流では役場の職員が休み時間に川に入り騒いでいた.鮭鱒が川に戻ってきていた.それで騒いでいたのだった.われわれの仕事の完了したことを実感した.
53. ゆきひかり
「ゆきひかり」は寒さに強く味の良いイネの品種である.「ゆきひかり」が出てくる前は「味の良い品種は寒さに弱い」というのが定説であった.「ゆきひかり」がどのようにして出てきたか話しをしよう.
私が稲作部に移る5年ほど前,稲作部の部長が「水野を稲作部によこせ」という話があった.しかしそのとき化学部ではカドミウム汚染米対策を中心として,重金属対策があり,そこを抜け出すのは困難なときであった.そのため当時は稲作部に移動することは不可能であった.再びその話が出たのは5年後である.昭和55年の人事で稲作部に移動することとなった.「優良米早期開発プロジェクト」が掲げられた事業の発足であった.それまでの「北海道の米は美味しくない」という定説を覆す目的もあった.そのとき稲作部にはデンプンの種類を分類して分析するオートアナライザーがすでに入っていて,コメの味の重要な部分はこのデンプンの種類によるところが大きいことを稲津研究員によって明らかにされていた.
すなわち,デンプンには二種類あって,それはアミロースとアミロペクチンである.前者のアミロースは直鎖型のデンプンで,これが多いとボロボロの粘らない米になる.これに対してアミロペクチンは沢山枝を持ったデンプンで,これはそれぞれの枝が絡み合って,粘りのある米となる.もち米のデンプンである.このような研究はこれまでなされていなかったのである.その後わかってきたのはこのデンプンの種類とイネの耐寒性の遺伝子が近いところにあり,そのため美味しいコメと耐寒性が相反するように現れていたということであった.
それではどのようなことで「ゆきひかり」が世に出てくる事になったのか.たしか昭和56年1月であったと記憶している.選抜育成中のイネの中にアミロースの低い系統があるとある研究員が言い出した.系統番号114だったろうか.45年も昔のことではっきり記憶がない.系統番号とは品種として認定される前の育成段階の番号である.この中でアミロースの低い系統があるという.品種までなるかどうかわからないがもう1年様子を見ようとなった.ところが昭和56年は稀に見る冷害年になった.そこで育種には全くの素人の自分に1年間この系統114が預けられることになった.
5月中旬に試験圃に植えられたイネは寒さのため.全く成長しなかった.普通は田植え後1週間もすればイネは成長始めるが,一ヶ月以上も植えたままであった.そのとき感じたのは一ヶ月も成長しなくてもイネは枯れないということを初めて知った.やがて6月20日ころになって少し気温が上がると,系統114号が成長を始めた.その時の平均気温は13.2℃であった.それから1週間後に他の系統や品種も成長を始めた.その時の平均気温は14.0℃であった.この0.8℃の差がこのイネの耐寒性となった.この差がどれほどの差であるかを知ったのは平成の大冷害であった.他のイネの不稔が広がったのに,このイネは結実していった.
もう一つの大きな特徴は肥料である.他の品種は10アール当たりのチッソ施肥量は8kgである.しかし「ゆきひかり」の施肥量は6kgである.それ以上施肥すると倒伏するのであった.茎が細く背の高い「ゆきひかり」は倒れやすいのである.このチッソ肥料の少なさは米中の蛋白質含有率を下げ,米の味を良くしていた.この蛋白質の低いさはアレルギー病の持つ子供のためのおコメとして重宝されている.「ゆきひかり」は優良米早期開発の第1号であり,また以上のような特徴をもったイネの品種である.このような特徴を持った品種はほかには見られない.
おそらく温度がいくらから成長するとか,施肥量をいくらにするかなど選抜する前に検討された品種は「ゆきひかり」だけであろう.普通,品種は育種家だけですすめられるからである.
平成の大冷害年は上富良野で十勝岳泥流の試験をしている時であった.この年は4月の末から寒い日が続いた.ピナツボ山の噴火での冷害である.北海道では何処も冷害でイネの結実は著しく低下していた.富良野盆地も例外ではなかった.その中で「ゆきひかり」だけは確実に登熟していたのを確認できた.わずか0.8℃の寒さに対する抵抗力の差がこれほど大きいとはそれまで考えなかった.すばらしい品種である.
54. 冷害と「日照りの夏に不作なし」の関係
2026年2月10日の朝日新聞の14ページに「日照りの夏に不作なし」ということで猛暑の続く近年では農業政策にもこの言葉が農水省の役人の頭で生きていたらしいことが出ていた.正直呆れてしまった.この言葉がいかにいい加減か先にも書いた.改めてイネの凶作を考えてみよう.
冷害による凶作には2つのタイプがある.その一つは曇天低温でイネの生育が遅れて不作になるタイプ,いわゆる遅延型冷害である.昭和56年の冷害がこれに当たる.曇天で気温が上がらず,平均気温の14℃以下の日が6月20日過ぎまで続いた.そしてこの年は典型的な遅延型冷害となった.農技研の松島省三(1957)によると,玄米の千粒重は籾殻の大きさによって決まるが,遅延型で成育が遅れた場合,籾殻の形成は高温の時になり籾殻がより大きくなる.そのためより登熟が困難になるといわれる.すなわち,ただでさえ遅れているのにその後の高温でより登熟が困難な籾殻になるというのだ.
このことはあまり理解されていないようだが,遅延型の冷害の時には籾殻の大きさの決まる時期に天候は回復する.多くの農家は「これで米は穫れる」と喜ぶ.しかしこの後登熟が回復することはない.松島氏が指摘した通りである.
もう一つが障害型冷害である.この典型的な例は確か昭和50年代のはじめにあった.正確な年代の記憶は抜けている.当時は耐冷品種「ゆきひかり」の出る前で,北海道の稲作で美味しいコメの品種は「キタヒカリ」であった.晴天の日が続き,イネは順調な成育をしていた.ところが7月22〜25日であったと記憶しているが,突然冷温がきた.オホーツク海に高気圧が張り出し,そこから冷たい空気が北海道に流れ込んできた.「キタヒカリ」にとっては花粉のできる大事な時期であった.これで「キタヒカリ」は全滅したのである.典型的な障害型冷害である.いくら順調な成育をしても,たった2,3日の低温が来ただけで壊滅的な障害を受けることがある.これが障害型冷害の恐ろしさある.
ここで「日照りの夏に不作なし」が当てにならない例を挙げよう.昭和31年のことである.毎日,日照りが続き,雨の降らない日が続いた.石狩川の本流をヒザ下の水位で歩いて渡れた年である.牧場で働いていた年で,牧草は伸びず,放牧中の牛に食べさせる草に困った.それでも気温は上がらず涼しい日が続いた.太陽は笠を被り(太陽が薄い雲に覆われたように)弱い日差しであった.「日照りの夏に不作なし」の言葉が崩れた年であった.当時は,ソ連は「鉄のカーテン」の向こう側で,ロシアの情報は入らなかった.後年,調べたところ,この年はシベリアの森林火災が続いていたとのことであった.北海道ばかりでなく,シベリアも干ばつが続き,そのため森林火災は止まらず,その煙は太陽光を遮っていたのである.
1993年の平成の大冷害はフィリッピン・ピナツボ山噴火の2年後である.大気中に放出された大量の火山灰の微粒子は成層圏まで達し,太陽の光の透過を妨害したために発生した冷害である.シベリヤ大森林の山火事,火山噴火による太陽光透過の妨害など,気候変動とは別の要因での冷害である.現在,高温年が続いているからといって必ずしも豊作が保証されているのではないことを知るべきである.山火事の大きな原因は乾燥である.「日照りの夏」は山火事の原因でもある.最近は日本でも頻繁に山火事が発生する様になった.これらがどのように米作りに影響するか農水省の役人ももっと勉強してほしいものである.