水野直治先生 エッセー集{2026}  61~66

Date:2026.07.16

61. カッコウ
 カッコウは季節を知らせる鳥でもある.昔から「カッコウが鳴いたら何を蒔いても良い」と言われてきた.カッコウが飛来したらもう霜は降らないという意味である.栗山とかあるいは北空知の深川当たりでは通常5月の17 ~18日ころにカッコウの飛来があり,初鳴きを聞くことができる.しかし今から30年ほど前になるだろうか.なかなかその時期になってもカッコウが鳴かなかった時がある.そして6月の7日˚頃,強烈な霜が降りた.丁度本葉が出始めていたカボチャなどは全滅した年である.
 どのようにしてカッコウは霜の降ることを感知するのかわからない.しかし驚くほど正確にそれは的中する.この年にカッコウの初鳴きを聞いたのは6月10日頃である.カッコウやツツドリ,ホトドギスの仲間は托卵する鳥族である.托卵とは自分で卵を抱いて孵化させるのではなく,他の小鳥の巣に卵を生んで,そして雛の子育てまで人任せをする鳥である.
 平年より2週間も遅れてやってきたカッコウは托卵する小鳥はすでにいなかったのであろう.翌年,カッコウの飛来が大幅に減ったと感じた.ところがそれとは関係がなく,最近大幅にカッコウが減ったと感じていた.昨年,2025年は栗山でも,深川の山でもカッコウの声を全く聞くことがなかった.今年は春が平年の10日も早くやってきた.しかし5月17日になるのに,カッコウの声は聞こえない.今年もカッコウは来ないのだろうか.自然界で何が起きているのだろうか.まだ5月なのに本州では軒並み最高気温が30°を超えている.この夏はどうなるのだろう.人間のっ世界も戦争で世界中が大混乱であるが,自然界も何か混乱が起きているようだ.
 
62. ウグイス
 わが屋の山林手前のブッシュ地帯に早春にやってくるのはウグイスである.どうも毎年同じ場所に来るところをみると,同じ個体らしい.それなのに早春の鳴き声はじめのウグイスはホーホケキョとは鳴けないらしい.なんとも突っかかったような下手な鳴き方である.1か月くらいかけて練習していて鳴いているうちにようやくあの「ホーホケキョ」と歌えるようになる.
 これは我が家の山に来るウグイスだけか思ったら,先日テレビを見ていたら,「ようやく上手に歌えるようになったね」とウグイスの鳴き方の上達を褒めている場面が出てきて納得した.それにしても同じウグイスが毎年春になると,前年の鳴き方を忘れてはじめから練習しなくては上手に鳴けなくなるのだろうか.また上手下手を判断する能力を持っているのも不思議である.他の小鳥ははじめから同じ鳴き方をしているところを見ると不思議である.
 まだウグイスの巣をさがしたことも見たこともないが同じ巣を使うのだろうか.あるいは毎年作り直すのだろうか.同じ場所に帰ってくるのも不思議な話である.同じ場所に帰ってくる鳥は他にもいて,それはモズであろう.モズはウグイスのように美しい声で歌うことはないが,毎年同じ場所にいるのを見かけるので,同じ個体が帰ってくると感じている.

63. アカシヤ
 テレビで「子供たちに残したい美しい日本のうた」を見ていたら.懐かしい過去を思い出させる歌が出てきた.一つは「夕焼け小焼け」であり,もう一つは「この道」である.
1990~1994年まで4年間網走の東京農業大學網走寒冷地農場に勤務していた時期がある.東京農大の農場は農学部所属で,農場の本部は八王子にあり,駅から500mほどのところにあった.在職中は年に2〜3回この農場本部を訪ねた.この農場の入り口近くの土手に「夕焼け小焼け」の記念碑があった.小さな記念碑であまり人目に付かないところで,この記念碑を知っている人はあまりいないかも知れない.この記念碑のあるところから夕日が沈む西を眺めると,「夕焼け小焼け」の歌の放映時にテレビに映った景色とそっくりであった.「夕焼け小焼け」の歌は農大時代に眺めた光景を思い出させた.
 もう一つは「この道」である.1943~1945年まで札幌に住んでいた時期がある.場所は札幌市北1条西3丁目であったから,時計台と札幌グランドホテルの間であった.元の家主は歯科医の家とかで大きな家であった.この家に三家族が入っていた.そして2階のベランダからは大きなアカシヤの木から花の咲いた枝を取ることができた.アカシアを初めて見たのは札幌に行ってからである.
毎日学校に行く時,窓から時計台の時間を見て出掛けて行った.第二次世界大戦の真っ只中のときである.家の前に簡単な防空壕を掘り,あるいは夜は灯火管制もあったが,札幌市は米軍機の爆撃も無く平穏な日が続いた.北原白秋は札幌には来た事がないとのことであるが,それでも札幌の花はアカシアであったのだろう.
 それでも父もいないことから現在は深川市になっている音江村に疎開し,そのまま住み着くこととなった.中学校を卒業し8ヶ月後,深川市の石狩川沿いにある牧場に働きに出ることになった.ここで石狩川の中洲にも放牧場があり,朝昼晩の1日3回手漕ぎの舟で川を渡って搾乳に通った.この中州にはアカシアの小さな林があった.砂利だらけの河原に育つ樹木はアカシアだけかもしれない.そしてここのアカシアの開花期は6月20日頃であった.この時期は一年中で最も気持ちのよい季節であった.アカシアの花の下での搾乳はとても気持ちが良かった.そのときの気持ちはあれから70年以上も経つのに鮮明に記憶されている.
余談:
 農業試験場にいた時の話である.実験室である瓶の蓋が開かないという問題がおきた.そこへ柔道3段の力自慢の男がやってきた.しかし彼でもその瓶の蓋は開かなかった.そこで瓶を受け取り回したところ簡単に蓋はとれた.力自慢の男はそれを見て,「俺がやって瓶の蓋が緩んでいたからあいたのだ」と叫んでいたのを思い出した.毎日10頭近い牛の手による搾乳を朝昼晩の3回毎日5年間もやっていたら握力も強くなる.私の体格から誰も握力が強いと思う人はいなかっただろう.しかし当時の握力は70以上であったと記憶している.

 話を戻すとして1989年,アメリカのワシントン州立大学の植物学の専門家であったクルックバーグ博士が我が家に滞在していた時,日本ではニセアカシアと呼んでいるが,アメリカでは何と呼んでいるか尋ねたことがある.すると博士は「アカシア」であると答えた.別にニセアカシアなどと言わなくても良いのではないか.アカシアは元々アメリカから入ってきたらしく,極めて生命力の強い樹木である.今では至る所に生育している.アカシアは蜜源としても極めて有望で,蓉峰家にとっては極めて大切な樹種であることも忘れてはならない.
 
64. アオサギ
1990年のことである.農業試験場をやめ網走の東京農業大学網走寒冷地農場に赴任した年である.宿は女満別に決めたある日にこと,女満別側の網走湖を見るために湖畔に降りて行った.湖にはまだ氷が張っていた時期である.そこで不思議なものを見た.湖畔近くの氷の上に直径10cmほど,高さ50cmほどの杭の頭のようなものが20本ほど並んでいたのである.しばらく見ていたがなんでこんなものが湖畔に打ちつけてあるのか理解ができなかった.そのうちその中の1本が動きだした.それで謎は解けた.杭の頭と思っていたのは杭ではなくアオサギだったのだ.20羽近いアオサギがまるで杭でも打ったように全く動かず朝陽を浴びていたのだった.
 その後,春になり水芭蕉の季節になったある日,女満別から網走に向かって湖畔を散歩して行った.この地帯にはすばらし水芭蕉の群落があるのだ.やがて網走市呼人近くにきたところヤチダモの群落にたどり着いた.そこであのアオサギの巣の群落のある事に気がついた.アオサギは個々に勝手に自分の好きなところに営巣するのではなく,特定の場所に集団で営巣する鳥のようだ.この呼人のヤチダモの群落で,アオサギは何十組もの集団営巣をしていたのだ.いつからここが営巣地になったかわからない.
 昭和30年の初めの学生のころ,野幌の原生林がアオサギの営巣地として有名だった.しかしこの営巣地はアライグマの出現で破壊されてしまった.アライグマが木にのぼり,巣の中の卵をとって食べてしまうのであった.そのためアオサギは野幌原生林の営巣地を捨ててしまった.その後アオサギは道内各地に散っていった.網走の群落もその一派かも知れない.
 北空知の深川では,以前はアオサギを見ることはなかったが,今では我が家の小さな溜め池のまわりの木にアオサギがとまっていることがよくあるようになった.アオサギの群落が分散したのである.

65. ジーゼルエンジン(発動機)
 昭和20年代の前半だったろうか.お盆がすぎると晴れた日にあちこちの畑でポンポンと音を立てて脱穀が行われていた.北空知の音江ではコムギなどを栽培する農家は少なかったから,食用の麦類の脱穀ではなく,当時はどこの農家も馬がいたので,そのための重要な餌であるエンバクの脱穀が主要な作業であった.まだ暑い季節中のこの作業はどこの農家でも重要な作業であったようだ.
 春の農地の耕起や水田の代掻きは重要な作業で,それは馬の重要な作業であった.1頭の馬に1日に食べさせるエンバクの量は10~15kgも与えていたようだ.そのため,エンバクを自給している農家にとってはエンバクの脱穀は重要な作業であった.戦後の石油類が充分でないこの時期,どのようにして燃料を調達していたのだろうか.
 記憶にあるエンジンは5,6馬力のジーゼルエンジンである.私の記憶は戦後のみであるが,戦時中の石油燃料のない時代にどうしていたか年配の友人に聞いたところによると,ジーゼルエンジンに使う軽油は十分ではないが配給で供給されていたという.多くの農家の主人は兵隊として家をあけていたので,戦時中は婦人や子どもたちで作業をしていたと思われる.
北空知は水田地帯であったので,コムギ栽培はほとんどなく,麦類の栽培は馬用のエンバクが主体であった.8月中旬はエンバクなどの麦類の脱穀最盛期であった.作業は屋外であり,ジーゼルエンジンは脱穀機を直接ベルトで繋ぎ,使用していた.しかしイネの脱穀や籾摺りは屋内での作業で,農家の納屋には脱穀機や籾摺機はプーリーを介してエンジンに連結していたのを見ることが出来た.当時は農作業にガソリンエンジンを見たことがなかった.すべてがジーゼルエンジンでの作業であった.農家にモーターが入ってきたのは戦後時間が経ってからである.
 
66 ランプのホヤ磨き
 朝ドラで「風,薫る」を見ていて昔,開拓地に入った時にランプのホヤ磨きをしたことを思い出した.ランプ生活は小学校4年生の開拓地に入るまで経験がなかった.戦後直後,電力不足で「ロウソク送電」といって電球の中のフラメントが赤くなる程度の送電で,ろくに物も見えない送電の時もあったが,それでもランプ生活は開拓に入るまで経験がなかった.
 ランプに使う石油は灯油である.現在暖房に使っている石油である.灯油とはこのランプの灯火から付いた名前だろう.ランプは毎日手入れしなくてはならない.灯火のつく下は網目人っていて空気が入るようになっている.ここにほこりがついて空気の流れが悪くなると炎の油煙が多くなりホヤが汚れて光の通りが悪くなる.
 ランプのホヤは毎日磨く必要があった.油煙の煤で汚れるからだ.新聞紙で毎日磨くのが子どもの仕事だった.大人では手が大きくてホヤの中に手が入らないからだ.ランプの光は弱く,その光で書物を読むには大変であった.このランプでの生活は牧夫になり家を出る16歳まで続いた.そのランプ生活も大変な時期があった.何分開拓の生活は全く収入がなく,ランプに使う石油を買う金もない事があった.1月に使う石油はせいぜい一升(1.8L)であった.そんなことの経験から,暖房のため石油をバンバン燃やすのにはいまも抵抗がある.