水野直治先生 エッセー集{2026}  61~78

Date:2026.07.16

61. カッコウ
 カッコウは季節を知らせる鳥でもある.昔から「カッコウが鳴いたら何を蒔いても良い」と言われてきた.カッコウが飛来したらもう霜は降らないという意味である.栗山とかあるいは北空知の深川当たりでは通常5月の17 ~18日ころにカッコウの飛来があり,初鳴きを聞くことができる.しかし今から30年ほど前になるだろうか.なかなかその時期になってもカッコウが鳴かなかった時がある.そして6月の7日˚頃,強烈な霜が降りた.丁度本葉が出始めていたカボチャなどは全滅した年である.
 どのようにしてカッコウは霜の降ることを感知するのかわからない.しかし驚くほど正確にそれは的中する.この年にカッコウの初鳴きを聞いたのは6月10日頃である.カッコウやツツドリ,ホトドギスの仲間は托卵する鳥族である.托卵とは自分で卵を抱いて孵化させるのではなく,他の小鳥の巣に卵を生んで,そして雛の子育てまで人任せをする鳥である.
 平年より2週間も遅れてやってきたカッコウは托卵する小鳥はすでにいなかったのであろう.翌年,カッコウの飛来が大幅に減ったと感じた.ところがそれとは関係がなく,最近大幅にカッコウが減ったと感じていた.昨年,2025年は栗山でも,深川の山でもカッコウの声を全く聞くことがなかった.今年は春が平年の10日も早くやってきた.しかし5月17日になるのに,カッコウの声は聞こえない.今年もカッコウは来ないのだろうか.自然界で何が起きているのだろうか.まだ5月なのに本州では軒並み最高気温が30°を超えている.この夏はどうなるのだろう.人間のっ世界も戦争で世界中が大混乱であるが,自然界も何か混乱が起きているようだ.
 
62. ウグイス
 わが屋の山林手前のブッシュ地帯に早春にやってくるのはウグイスである.どうも毎年同じ場所に来るところをみると,同じ個体らしい.それなのに早春の鳴き声はじめのウグイスはホーホケキョとは鳴けないらしい.なんとも突っかかったような下手な鳴き方である.1か月くらいかけて練習していて鳴いているうちにようやくあの「ホーホケキョ」と歌えるようになる.
 これは我が家の山に来るウグイスだけか思ったら,先日テレビを見ていたら,「ようやく上手に歌えるようになったね」とウグイスの鳴き方の上達を褒めている場面が出てきて納得した.それにしても同じウグイスが毎年春になると,前年の鳴き方を忘れてはじめから練習しなくては上手に鳴けなくなるのだろうか.また上手下手を判断する能力を持っているのも不思議である.他の小鳥ははじめから同じ鳴き方をしているところを見ると不思議である.
 まだウグイスの巣をさがしたことも見たこともないが同じ巣を使うのだろうか.あるいは毎年作り直すのだろうか.同じ場所に帰ってくるのも不思議な話である.同じ場所に帰ってくる鳥は他にもいて,それはモズであろう.モズはウグイスのように美しい声で歌うことはないが,毎年同じ場所にいるのを見かけるので,同じ個体が帰ってくると感じている.

63. アカシヤ
 テレビで「子供たちに残したい美しい日本のうた」を見ていたら.懐かしい過去を思い出させる歌が出てきた.一つは「夕焼け小焼け」であり,もう一つは「この道」である.
1990~1994年まで4年間網走の東京農業大學網走寒冷地農場に勤務していた時期がある.東京農大の農場は農学部所属で,農場の本部は八王子にあり,駅から500mほどのところにあった.在職中は年に2〜3回この農場本部を訪ねた.この農場の入り口近くの土手に「夕焼け小焼け」の記念碑があった.小さな記念碑であまり人目に付かないところで,この記念碑を知っている人はあまりいないかも知れない.この記念碑のあるところから夕日が沈む西を眺めると,「夕焼け小焼け」の歌の放映時にテレビに映った景色とそっくりであった.「夕焼け小焼け」の歌は農大時代に眺めた光景を思い出させた.
 もう一つは「この道」である.1943~1945年まで札幌に住んでいた時期がある.場所は札幌市北1条西3丁目であったから,時計台と札幌グランドホテルの間であった.元の家主は歯科医の家とかで大きな家であった.この家に三家族が入っていた.そして2階のベランダからは大きなアカシヤの木から花の咲いた枝を取ることができた.アカシアを初めて見たのは札幌に行ってからである.
毎日学校に行く時,窓から時計台の時間を見て出掛けて行った.第二次世界大戦の真っ只中のときである.家の前に簡単な防空壕を掘り,あるいは夜は灯火管制もあったが,札幌市は米軍機の爆撃も無く平穏な日が続いた.北原白秋は札幌には来た事がないとのことであるが,それでも札幌の花はアカシアであったのだろう.
 それでも父もいないことから現在は深川市になっている音江村に疎開し,そのまま住み着くこととなった.中学校を卒業し8ヶ月後,深川市の石狩川沿いにある牧場に働きに出ることになった.ここで石狩川の中洲にも放牧場があり,朝昼晩の1日3回手漕ぎの舟で川を渡って搾乳に通った.この中州にはアカシアの小さな林があった.砂利だらけの河原に育つ樹木はアカシアだけかもしれない.そしてここのアカシアの開花期は6月20日頃であった.この時期は一年中で最も気持ちのよい季節であった.アカシアの花の下での搾乳はとても気持ちが良かった.そのときの気持ちはあれから70年以上も経つのに鮮明に記憶されている.
余談:
 農業試験場にいた時の話である.実験室である瓶の蓋が開かないという問題がおきた.そこへ柔道3段の力自慢の男がやってきた.しかし彼でもその瓶の蓋は開かなかった.そこで瓶を受け取り回したところ簡単に蓋はとれた.力自慢の男はそれを見て,「俺がやって瓶の蓋が緩んでいたからあいたのだ」と叫んでいたのを思い出した.毎日10頭近い牛の手による搾乳を朝昼晩の3回毎日5年間もやっていたら握力も強くなる.私の体格から誰も握力が強いと思う人はいなかっただろう.しかし当時の握力は70以上であったと記憶している.

 話を戻すとして1989年,アメリカのワシントン州立大学の植物学の専門家であったクルックバーグ博士が我が家に滞在していた時,日本ではニセアカシアと呼んでいるが,アメリカでは何と呼んでいるか尋ねたことがある.すると博士は「アカシア」であると答えた.別にニセアカシアなどと言わなくても良いのではないか.アカシアは元々アメリカから入ってきたらしく,極めて生命力の強い樹木である.今では至る所に生育している.アカシアは蜜源としても極めて有望で,蓉峰家にとっては極めて大切な樹種であることも忘れてはならない.
 
64. アオサギ
1990年のことである.農業試験場をやめ網走の東京農業大学網走寒冷地農場に赴任した年である.宿は女満別に決めたある日にこと,女満別側の網走湖を見るために湖畔に降りて行った.湖にはまだ氷が張っていた時期である.そこで不思議なものを見た.湖畔近くの氷の上に直径10cmほど,高さ50cmほどの杭の頭のようなものが20本ほど並んでいたのである.しばらく見ていたがなんでこんなものが湖畔に打ちつけてあるのか理解ができなかった.そのうちその中の1本が動きだした.それで謎は解けた.杭の頭と思っていたのは杭ではなくアオサギだったのだ.20羽近いアオサギがまるで杭でも打ったように全く動かず朝陽を浴びていたのだった.
 その後,春になり水芭蕉の季節になったある日,女満別から網走に向かって湖畔を散歩して行った.この地帯にはすばらし水芭蕉の群落があるのだ.やがて網走市呼人近くにきたところヤチダモの群落にたどり着いた.そこであのアオサギの巣の群落のある事に気がついた.アオサギは個々に勝手に自分の好きなところに営巣するのではなく,特定の場所に集団で営巣する鳥のようだ.この呼人のヤチダモの群落で,アオサギは何十組もの集団営巣をしていたのだ.いつからここが営巣地になったかわからない.
 昭和30年の初めの学生のころ,野幌の原生林がアオサギの営巣地として有名だった.しかしこの営巣地はアライグマの出現で破壊されてしまった.アライグマが木にのぼり,巣の中の卵をとって食べてしまうのであった.そのためアオサギは野幌原生林の営巣地を捨ててしまった.その後アオサギは道内各地に散っていった.網走の群落もその一派かも知れない.
 北空知の深川では,以前はアオサギを見ることはなかったが,今では我が家の小さな溜め池のまわりの木にアオサギがとまっていることがよくあるようになった.アオサギの群落が分散したのである.

65. ジーゼルエンジン(発動機)
 昭和20年代の前半だったろうか.お盆がすぎると晴れた日にあちこちの畑でポンポンと音を立てて脱穀が行われていた.北空知の音江ではコムギなどを栽培する農家は少なかったから,食用の麦類の脱穀ではなく,当時はどこの農家も馬がいたので,そのための重要な餌であるエンバクの脱穀が主要な作業であった.まだ暑い季節中のこの作業はどこの農家でも重要な作業であったようだ.
 春の農地の耕起や水田の代掻きは重要な作業で,それは馬の重要な作業であった.1頭の馬に1日に食べさせるエンバクの量は10~15kgも与えていたようだ.そのため,エンバクを自給している農家にとってはエンバクの脱穀は重要な作業であった.戦後の石油類が充分でないこの時期,どのようにして燃料を調達していたのだろうか.
 記憶にあるエンジンは5,6馬力のジーゼルエンジンである.私の記憶は戦後のみであるが,戦時中の石油燃料のない時代にどうしていたか年配の友人に聞いたところによると,ジーゼルエンジンに使う軽油は十分ではないが配給で供給されていたという.多くの農家の主人は兵隊として家をあけていたので,戦時中は婦人や子どもたちで作業をしていたと思われる.
北空知は水田地帯であったので,コムギ栽培はほとんどなく,麦類の栽培は馬用のエンバクが主体であった.8月中旬はエンバクなどの麦類の脱穀最盛期であった.作業は屋外であり,ジーゼルエンジンは脱穀機を直接ベルトで繋ぎ,使用していた.しかしイネの脱穀や籾摺りは屋内での作業で,農家の納屋には脱穀機や籾摺機はプーリーを介してエンジンに連結していたのを見ることが出来た.当時は農作業にガソリンエンジンを見たことがなかった.すべてがジーゼルエンジンでの作業であった.農家にモーターが入ってきたのは戦後時間が経ってからである.
 
66 ランプのホヤ磨き
 朝ドラで「風,薫る」を見ていて昔,開拓地に入った時にランプのホヤ磨きをしたことを思い出した.ランプ生活は小学校4年生の開拓地に入るまで経験がなかった.戦後直後,電力不足で「ロウソク送電」といって電球の中のフラメントが赤くなる程度の送電で,ろくに物も見えない送電の時もあったが,それでもランプ生活は開拓に入るまで経験がなかった.
 ランプに使う石油は灯油である.現在暖房に使っている石油である.灯油とはこのランプの灯火から付いた名前だろう.ランプは毎日手入れしなくてはならない.灯火のつく下は網目人っていて空気が入るようになっている.ここにほこりがついて空気の流れが悪くなると炎の油煙が多くなりホヤが汚れて光の通りが悪くなる.
 ランプのホヤは毎日磨く必要があった.油煙の煤で汚れるからだ.新聞紙で毎日磨くのが子どもの仕事だった.大人では手が大きくてホヤの中に手が入らないからだ.ランプの光は弱く,その光で書物を読むには大変であった.このランプでの生活は牧夫になり家を出る16歳まで続いた.そのランプ生活も大変な時期があった.何分開拓の生活は全く収入がなく,ランプに使う石油を買う金もない事があった.1月に使う石油はせいぜい一升(1.8L)であった.そんなことの経験から,暖房のため石油をバンバン燃やすのにはいまも抵抗がある.

68. 有機農業は何を作物に付加するか
 今からほぼ50年前の1977年頃である.重金属による公害問題も一段落した頃であった.土壌溶液に存在する養分のバランスが作物の養分吸収に影響することが広く知られることとなった.土壌の重要な養分である石灰や苦土あるいは加里などの陽イオンは土壌粒子に結合していて,溶液中に溶け出すには土壌溶液中の陰イオンによって規制されるのである.
 そこで土壌溶液における陰イオンの存在に有機物がどのような役割を果たし
ているか興味を持ち検討した.有機物が分解したとき発生する二酸化炭素は水に溶けると重炭酸イオン(炭酸水素イオン:HCO3-)の陰イオンとなる.これが土壌成分の溶出にどのような影響を与えるか検討してみたのである(水野,土壌からの陽イオンにおよぼす炭酸ガスの効果.土肥誌,1978, 49).
 最近は有機農業生産物の宣伝が多いが,しかしそれが化学肥料で生産した農作物とどこが違うのかその点の表示は曖昧である.そこでこのエッセイでは土壌養分の吸収が堆肥などの有機物が土壌に入った場合にどのような変化が起こるか検討したのである.
 実験では二酸化炭素を吹き込んだ水を加えた土壌から土壌中の石灰や苦土などの陽イオンがどのように抽出されるかみると,カルシウムやマグネシウムなどの2価の陽イオンがカリウムやナトリウムのような1価のイオンより高い抽出効果のあった事である.それでこの効果を実際の作物で見ることにした.ポット試験では堆肥や稲藁を入れてテストしたところ,土壌溶液中の塩類濃度,すなわちカルシウムやマグネシウムなどの肥料養分が増大し,その増大する養分の順位は Ca>Mg>K>Na であった.この順位は圃場で作物の養分欠乏の発生しやすい順位でもある.
 圃場などでトマトなどはカルシウム欠乏になりやすく,カルシウム欠乏になるとトマトは果実の先端が黒くなって痛んでくるのをよく見られる.このような生育障害を堆肥など有機物肥料の施肥で防除できることを示しているのである.ここではカルシウムやマグネシウだけの例にあげたが,二酸化炭素の供給は土壌液中の陰イオンの総量を高くし,そのため陽イオンの溶け出す総量を高めるのである.それでは作物が塩類障害になるのではとの心配される方もいるかもしれない.しかしそれは心配ご無用,なぜなら有機物の分解に携わるのも微生物で同じ生物であるのであるから,作物に害に出る濃度は微生物にも害が出るので,そんなに高くはならない.この効果は適度な上昇によってその他の必須微量重金属などの供給にも効果がある.このような効果は化学肥料ではできない.化学肥料では施肥時が最も塩類濃度が高く,これは作物の生育とは関係なく,入れる量で決まる.その後塩類濃度は下がるだけである.化学肥料は入れ過ぎると過剰害で肥料やけを起こすし,作物の養分吸収によって土壌溶液の塩類濃度を一定に保つ事はできない.これが堆肥などの施用ではこれらの欠点をカバーしてくれる.塩類濃度をある高さに一定に保つことは品質にも影響する.果物などはある高さの塩類濃度は糖分の高さを維持する条件でもある.
微量重金族欠乏の低下を堆肥に含まれるこれらの成分のためと考える研究者も多いが,それもあるが二酸化炭素による土壌溶液中の陰イオンの効果も忘れてはならない.

69. 陸(ロク)
 子供の頃,よく「ロクでなし」と言われた.ロクでもないとか,ロクに何もできないとかあまり良い言葉ではないことわかったが,その由来は長い間わからなかった.そこで語源を調べると,陸を「ロク」と読んでいることがわかった.それを広辞苑で見ると陸「ロク」とは正常なこと,満足できる状態,平坦なこと,漢字の六の大文字に用いられるともある. 
 庭師には「ロク」という言葉をよく使うという.たとえば「その石の天端をロクにしてんか」などであるという.意味は天端のそろった平坦な石にするということであるという.水平にすること,平坦なこと,歪みがなく正しいこと,まっすぐなこと,真面目なことなどが陸『ロク』である.
 これから陸とは平坦で,平なことであることが想定される.2000年頃,中国の新疆ウイグルに行ったことがある.北京から延々と飛行機で4時間も中国大陸上空を飛んでいった.飛行機の窓から見える大陸は多少の凸凹はあっても平坦な砂漠の上を延々と飛んで行った.まさに大陸は「ロク」であった.山だらけの日本では陸地が平坦だとは感じられないが,中国やアメリカ,カナダ,ヨーロッパでは陸地は大部分が平坦であることに気が付く,陸はロクでもあるのだ.「ろくでなし」とは平でない,正しくない,歪んでいるということであった.

70. 戦争,言語および民族
 2026, 6/13の関口宏の「一番新しい近現代史―山本五十六死す」を見る.1941(昭和16)年12月8日に始まった太平洋戦争は昭和18年になると様子は随分変わってきた.この年の四月に私は札幌中央創成小学校1年生となった.中央創成小学校は時計台の南側にあって,現在の市役所のところであった.ずいぶん古い学校であったが,標本室にはたくさんの動物や鉱石などの標本があった.しかし校庭は狭く,運動会は円山公園まで歩いて行って実施していた.
 昭和18年5月29日(正確には29日か30日かはっきりしない)には小学生全員が狭い校庭に集められ,校長先生からアリューシャン烈島にあって日本兵が守備していたアッツ島が玉砕したと告げられた.アッツ島には2650名の守備隊員がいたが,2週間の米軍との戦いで150名にまで守備兵が減った時,捕虜になった29名以外は全員突撃し,死んでいった.この時初めて玉砕という言葉が使われた.玉砕とは中国から来た言葉で,「玉のように美しく砕ける」との意味だという.もうこの頃から日本は負け戦にはいっていた.
 一方,連合艦隊司令長官の山本五十六は昭和18年4月18日にブーゲンビル島で戦死したが,5月21日まで極秘とされた.5月21日に戦死を発表し,元帥の称号が与えられた.また6月5日に国葬が営まれた.皇族,華族でなく平民での国葬は山本五十六が最初である.山本五十六が搭乗した飛行機がブーゲンビル島で撃墜された経緯については,山本がラバウルからブーエンビルへの視察を計画し,これを暗号で行き先に連絡していたという.ところがこの暗号の計画を米軍に読まれたていたという.そして米国国立公文書館によると,太平洋艦隊司令長官のニミッツがこの暗号の内容を知ることとなる.また山本五十六を暗殺すれば山本より優れた指揮官は日本では出てこないと分析し,暗殺の許可願をローズベルト大統領に判断を委ねている.たとえ戦争中であっても,山本程の大物となるとその暗殺には政治的判断が必要であったという.
 アメリカ軍のP39戦闘機16機が山本搭乗機を襲い,機関銃で頭部と胸部撃ち抜かれ,軍刀を持って立ったまま戦死していたといわれる.
 ここで注目したいのはアメリカの諜報力である.日本では戦時中に英語などの敵国語の教育はほとんど禁止されていた.それに対してアメリカなどでは如何であったろう.
 話が変わるようだが,実は1989年にアメリカ・シアトルにあるワシントン州立大学のクルックバーク博士が我が家を1週間拠点にして道内の超塩基性岩地帯を回ったことがある.博士は日本語も結構話すことから,なぜそんなに日本語が上手なのか尋ねた.返ってきた答えは大学生の時太平洋戦争で,日本語を勉強させられたとのことであった.日本の情報を得るためであったという.全く日本と反対であった.
 ただ小学校1年生か2年生であったが,札幌市の病院に行ったとき,待合室で1中(今の北海道立札幌南高等学校)の生徒が声をかけてきた.内容は忘れたが,何点かの日本語を英語で何のように言うか説明してくれた.まだ英語を教えていた旧制中学があったのかもしれない.
戦争による民間人の悲劇:
 テレビの朝ドラで放映された「マッサン」ことニッカウイスキー株式会社の創立者であった竹鶴政孝の奥さんはスコットランド出身者であった.そのため太平洋戦争中,ニッカウイスキーは海軍の重要な供給源で貢献していたにもかかわらず,奥さんには特高の監視がつきまとい,スパイ容疑をかけられ苦しい辛い日が続いたという.特にキリスト教に対する弾圧は厳しく,キリスト教の平和論や,唯一神信仰は忌み嫌われた時代であった.
 大戦中は特高による民間人の弾圧は数多くあったが.その中で記憶に残る事件として「宮澤・レーン事件」がある」これは戦争が始まった1941年12月8日に北海道帝国大(現在の北海道大学)の工学部生だった宮澤弘幸さんが言われないスパイ容疑で逮捕された事件である.宮澤さんは米国人の英語教師であったハロルド.レーンさん,ポーリン夫妻に根室の海軍飛行場などの情報を漏らしたとして.軍機保護法違反(スパイ)容疑でレーン夫妻とともに特高警察に逮捕された.宮澤さんは戦後に釈放されたが,獄中で患った結核が原因で19これらの経緯は子供の時のことで私は知らなかったが,昭和30年か31年であったが,この頃,私は独学の時代で,NHKのラジオによる高等学校講座を聞いていた.この講座は確か昭和27年に始まった大学受験生のための講座で英語,数学および国語の3科目の講座であった.そしてある日,英語講座でポーリン・レーン先生の講義があった.
 今から6,7年前に札幌で「宮澤・レーン事件を考える会」が主催されることを知った.そこで主催者に電話し,札幌市の南1条西1丁目で開催されたこの会に出席した.そうしたところポーリン・レーン先生のことを話すように言われ,5分ほど話す羽目になった.アメリカに追放されたポーリン・レーン先生が日本に戻ってきたことをこの主催者たちは誰も知らなかったのである.私の方はポーリン・レーン先生が大戦中に日本から追放されたことも,宮澤・レーン事件のことは知らなかった.このような事件は大戦中あちこちであったのだろう.愛国心というのは時としてとんでもない非人道的な行動をとらせるものなのかも知れない.
神の約束の地:
2026年6月,イスラエルによるパレスチナ戦争の現地ルポがあった,その中でイスラエル人がパレスチナに越境して農業を始めている人の談話があった.そこで発言した言葉には流石のびっくりした.「ここはユダヤ人が神からの約束の地である」というのだ.旧約聖書の「出エジプト記」での話である.
エジプトの奴隷であったユダヤ人がモーセに導かれ,荒野を彷徨い,辿り着いた地であるという3,200年前の話である.神話の時代の話である.そんな昔の話を盾に国土を主張するとは恐ろしい国である.アラブ人との戦いをそのような3,200年前の神?との約束の元に戦争をしているのだろうか.これまで多くの民族,あるいは国が栄え滅びていった.滅び去った国の民が「ここは我々の地である」と主張してそこに戻った話は聞いたことがない.
一方,アメリカのイラン攻撃はまるで11~13世紀に西ヨーロッパのキリスト教諸国がイスラーム勢力と戦った十字軍の遠征のように見えてくる.イスラーム国に攻め入った十字軍は敗れて自国に戻ってきた.今回も同じように十字軍は何も得ず,自国に戻ってくるのでは.原爆を持つことには私も賛成できないが,自分たちは多量の原爆を持っていながら,相手には「原爆を作るな」とはよく言えたものである.同じ地で誕生したイスラーム教とキリスト教の戦いは兄弟喧嘩のように見えてくるのはわたくしだけだろうか.同じホモ・サピエンスである.

71. 真白き富士の根
 テレビ放送で「子供たちに残したい 美しい日本のうた」を聴いていたら「真白き富士の根」の歌が出てきた.それを聞いているうちに遠い昔のことが蘇ってきた.今から85年も前の話である.その時6歳年上の従兄弟と天童公園の舞鶴山に登っていた時の話である.舞鶴山は人間将棋で有名な山であるがこの山は祖父の家のすぐ前の山であった.満州から引き上げてきてまだ間もない頃の5歳の時の話である.
 そこで何を思ったのかわからないが,歌のうまかった従兄弟は「真白き富の根」の歌の意味を語り出した.逗子開成中学校の生徒ら12人を乗せたボート「箱根号」は七里ヶ浜の沖で転覆し,全員が死亡したという.時は1910年1月23日であった.この悲劇を歌にしたのが「真白き富士の根」であった.作詞したのは鎌倉女学院の数学教師の三角錫子(1872-1921)であった.三角錫子は逗子開成中学校の近くに住んでいて,生徒たちを弟たちのように思っていたという.
 真白き富士の根 作詞 三角錫子
真白き富士の根 緑の江ノ島 
仰ぎ見るも今は涙 
帰らぬ十二の 雄雄しきみたまに
捧げまつる胸と心
ボートは沈みぬ 千寿の海原
風も浪も 小さき腕に
力も尽き果て 呼ぶ名は父母
恨みは深し 七里ヶ浜辺
み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影を潜め
みたまよ何処に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

 逗子では夕方5時になるとこの曲が流れていたという.しかしこの曲を聴くとこの悲劇のあった家族がそのことを思い出し悲しむとの意見が出て,この曲を流すのは中止されたとのことであった.しかし一方ではこの曲があったので,この七里ヶ浜の悲劇が百年経っても忘れられないであることも事実であるとの意見もある.
 この話を語ってくれた従兄弟は10年前に85歳でこの世を去って,今はこ
の世にいない.そういえばこのような話を私は子供達に語っていない.

72. 小さな傷と卵の薄皮
 何時のことだったか忘れたが,盛んにプロレスが放映されていた時期である.ある時プロレスラーにアナウンサーが質問したことがある.1日か2日前にあんなに怪我していたのになぜそんなに早く治るのか,と.出てきた答えにびっくりした.「傷口に生卵の内側の薄皮を張るのだ」とであった.
 それを聞いてから小さな傷が付くと,卵の内側の薄皮を傷口に貼り付けることにしている.なるほど治りが早い.初めは受精卵のみではないかと思っていたが,そうでない普通の市販卵でも効果があることがわかった.変な傷薬をつけるより治りが早いのだ.面白いことに貼り付けた薄皮は傷口が治った所ははげ落ちることだ.そしてまだ完治しないところは剥がれないのである.
それで思い出したことがある.開拓生活でよくニワトリを離し飼いにしていたことがある.すると時々雛を連れて藪から出てくることがあった.親鳥が藪の中に卵を産んで,それを抱いて孵化して雛を連れてくるのだ.その中にたまに卵の殻の破片をつけている雛がいる.このような雛は助からない場合がある.卵の薄皮は傷のある証拠でもあるらしい.そして傷が治るまでついているらしいのだ.どのような治癒効果があり,何がその治癒効果を上げているのかわからないが興味のある現象である.そこで酪農大に勤務している時,獣医学部の何人かに声をかけてが,興味を持ってくれる方はいなかった.
 90歳が近くなったここ数年には自分の皮膚が薄くなったことを感じる.細胞増殖力が低下しているためであろう.傷口を治すのは確かに殺菌効果も必要である.しかしそればかりではない.細胞の増殖が必要であろう.市販されている傷薬は抗生物質も他の傷薬も殺菌効果を主な効果としている.殺菌効果は多分細胞増殖にはむしろマイナスに働くにではないだろうか.それに対して卵の薄皮に含まれるのは細胞分裂促進剤であるように感じる.薄皮が最初に出会うのは単細胞の細胞から急速に細胞分裂し,雛になるまで細胞分裂を援助することであろう.また卵から孵った雛はこれから急速に成長する個体であり,それを保護する形で卵に存在するのであろう.このように解釈するのは間違っているだろうか.誰か卵薄皮の生理を研究してもらいたいものである

73. アザミとスコットランド
 テレビでマッサンを見ていて,アザミが花瓶にさしてある場面が出てきた.はじめ気が付かなかったがやがてその意味に気がついた.アザミはスコットランドの国花であることを思い出した.マッサンの奥さんはスコットランドの出身だった.8〜13世紀,スコットランドは北欧のバイキング侵入に苦しんでいたという.ある時,スコットランドに忍び足で侵入してきたバイキングがトゲだらけのアザミを踏んでしまったという.裸足でアザミを踏んだからたまらない.つい大きな声を出したものだからスコットランドの兵に侵入を気づかれてしまった.このことから国を救った花としてアザミはスコットランドの国花になったという.
 1991年に国際蛇紋岩生態学会議がカリフォルニア大学デイビス校であり出席した.会議の後,現地研修があり,カリフォルニアの蛇紋岩地帯を歩き回った.その中で日本のアザミに比べてより鮮やかな赤桃色の花と鋭く長いトゲのアザミがあちこちに咲いているのが見られた.あまりにも綺麗なので,よっぽどタネを持ち帰ろうかと思ったが取りやめた.鋭いトゲがその原因である.
このようなトゲがやたらにあったら,薮にも入ることができなくなると思い至った.これは正しかったようだ.最近,あちこちにカリフォルニアで見たようなアザミを見かける.誰か日本にアザミの種を持ち込んだのかもしれない.
 カリフォルニアの藪を歩いて感じたことはやたらにトゲだらけの植物が多いことだ.トゲといえばサボテンであるが,サボテンのトゲは乾燥地で水分の蒸散を抑制するため,葉がトゲになったと言われる.したがってカリフォルニアのような乾燥地ではトゲの多い植物が多いのは理解できる.そのようなトゲだらけの中を半ズボンで歩き回る研究者もいて驚きだった.
 スコットランドのアザミはどんなアザミだろうか.気候風土から考えると,北海道のアザミと似ているのかもしれない.
 
74. 紫外線
紫外線を調べたことがある(1991年).網走の東京農業大学網走寒冷地農場に赴任したときである.野菜を植えようと思い,野菜苗を植えたところ,焼けたようになり枯れていったのである.そのようなことは栗山ではなかった.多分紫外線は強いだろうとの予想をしていたが,これほど強いとは思っていなかった.紫外線の影響であることは下記のナスの写真と通りである.紫外線カットフィルムをかけたところは正常な生育を示したが,自然光を直接当たる栽培ではご覧のように枯れる寸前の状態であった.
生物を紫外線から守る南極上空のオゾン層が破壊されているとの警告(1974年)から13年後にはモントリオール議定書が締約されるに至った(1987).それでもオゾン層の破壊は南極上空ばかりでなく,北極上空にも現れカナダや北欧でも紫外線強度の増大が報道されるに至った.したがって当然北極に近い網走の方が栗山より強いことは予想していた.しかし野菜の苗が枯れるほど強いとは思わなかった.(紫外線はその波長からUV-A (320~400nm), UV-B (280~320nm), UV-C (280 nm 以下)に区分される.地上で問題となるのはUV-A とUV-B である.
 そこで紫外線(UV)を網走と栗山で測定することにした.紫外線(UV-A, B)の測定には東レテクノKKのSUV-T(260~390nm, W/m2)で測定した.
 測定してみるとやはり網走地方は高かった.太陽が真上に来る時間は,網走では11時23分であり,栗山は11時40分であった.曇天や雨の日は除き,その時間に測定すると,5月から9月の間では栗山では50~60W/m2の範囲であったが,網走では60W/m2を超える日が度々あり,7月30日には74W/m2を超えた.意外だったのは光が強いはずの5月,6月があまり60W/m2を超えなかったことである.これは網走地方が火山灰地で,春先は風で火山灰土が舞い上がるためであろう.そのため雨上がりの晴天の時には60W/m2を超える日が観測されている.
   

 強い紫外線は作物ばかりでなく,人間にも有害である.2004年にオーストラリアを訪ねたときは,幼稚園の児童の被る帽子には後頭部を太陽の直射日光から守るための布が付けられていたのを見ることができた.現在は日本でも同じような帽子を子供たちが被っているが,当時日本ではまだそこまではなっていなかった.
一方,20世紀の終わり頃だったと思うが,ホウレンソウが育たないと言っていた時期がある.そこで一時時期紫外線カットフイルが流行った.ホウレンソウの生育が良くなり,2倍だか3倍収穫があったと不思議だと言っていたの
を思い出した.しかし最近その紫外線カットフイルの使用が見られない.

75. カボチャ
 7月はカボチャの花咲く月である.子供の頃朝早く咲いた雌蕊に雄蕊の花粉をつけて回るのが仕事であった.ミツバチがたくさんいればその必要もないのだが,人が受粉すれば確実なのでこれを繰り返した.開拓地では笹の根などでまだ完全に耕地化されてなくても,カボチャはタネを蒔くところだけ1m2程度だけ耕して栽培できたので,便利な作物であった.
 一時期20年以上カボチャを食べなかった時期がある.開拓時期は米の入手もままならず,毎日カボチャやジャガイモ,トウモロコシばかり食べていたので,カボチャは見るのも嫌になったからである.それが40歳を過ぎてからだろうか.カボチャを食べてみたところその美味しさに気がついた.ビタミンや栄養もあるし,また毎年カボチャを作るようになった.不思議な作物である.栽培するのは簡単であるし,美味しいし,よくこんな作物を人に与えてくれたものである.

76. 馬耕と稲作
耕起,代掻きおよび田植え
 農村から馬が消えて50年が過ぎた.これから10〜20年も過ぎればどのような作業法で馬耕時代に稲作が行われていたかわかる人はいなくなるだろう.ここに述べるのは北海道の場合である.北海道の農作業はほとんどが江戸ビン・ダン指導によるアメリカ式であった.馬にかける命令語もその名残が残っている.そのこともあって,北海道では牛による農作業はなかった.また圃場の耕起はプラウによるものであり,鋤を使うことはなかった.プラウを使うにもほとんどが一頭引であり,プラウの大きさは水田では小さなプラウが使われた.
 まず稲作に使われた道具,器具を説明しよう.図1のプラウであるが,これは耕された土は右側に反転される.もちろんプラウには左側に反転するのも存在する.傾斜地などで同じ方向に反転する圃場用である.しかし水田用ではそのようなプラウは存在しなかった.このようなことから耕起されたあとは水田の中央が高くなる結果となる(図2).
 次の作業は砕土である.畑土壌と違い,水田土壌は硬いので,砕土器のハローはより鋭く,重いハローが使われる(図3).大変な作業は代掻きである.代掻きには図4の馬グワが使われる.作業がたいへんなのは他の作業のように淡々と同じ力で続ける作業ではなく,力の入れ方が変化するからである.図5のように水田の畔に近いところでは力を抜くが,中央では精いっぱい力を入れて土を鳴らさなくてはならない.プラウ耕作によって,土が田の中央に盛り上がっているためだ.そのため,代掻きでは人も馬も痩せるほど疲れる.作業が終わり,夕方馬を川辺に連れて行って川の水で洗ってやる時が最もホッとするチュン感である.
 昭和30年代から耕運機,続いてトラクタが入ってきたが,作土の耕起はプラウではなく,主体はロータリ耕に変わった.そのため田面には凹凸ができず平坦のままとなった.これは代掻きを極めて容易にしていった.

田植え
 代かきの後は田植えである.多くの家では田植えは家族だけで行うことは少なかった.多くは出面さんを雇うか,「手間替え」と言ってお互いに手助けする方法が取られた.私のいた深川市メムは北海道で米所であったが,田植え時に10〜20人の集団で田植えがなされていた.
 作業時は朝7時から夕方の6時までである.十時と15時にはそれぞれ15分間の休憩時間がある.
 一人当たりの田植え面積はおおむね10アールであった.ただ寒い時はこの数値に達しないときもあった.1平米当たりの株数は,多くは24株であり,従って10アール当たりは24,000株となる.それゆえ植える速度は2526株/1時間であり,1分間に42株となる.これには苗を受ける時間,苗を結束から解く時間,移動時間も入るので,植える速度は1株1秒ほどになる.
除草
 田植え後1カ月の間は図6に示したような除草機が使用された.この間,2,3回除草器が使用される.そのあとは手による除草である.熱い炎天下,田を這いつくばって手で田面をかき分けていく作業は機械化作業に慣れた現代人には理解されないかもしれない.このような作業はおそらく有史以来続けてきたのであろう.米の生産はこのように農民の厳しい作業の結果なされてきたのである.この手による除草も3回ほど行われた.
収穫
 出穂後灌漑水は止めるが,そのあとはヒエ抜きである.ヒエ(稗)も稲と同時期に出穂するので,わかりやすい時期でもある.これ2〜3回である.
 このようにして稲作は収穫期に入る.出穂から収穫までは積算温度で800度と言われてきた.平均気温の積算である.平均気温が20度で40日続くと積算気温は800度となる.もちろん20度の気温が40日続くことはない.高い時もあり,低い時もある.
登熟後刈り取りを行うが,この場合に使う鎌は双種類ある.普通一般に見る鎌と,鋸鎌である.一般の鎌は頻繁に研がなくてはならないが,鋸鎌は研ぐ必要がない(図7).刈った稲は置き方がある(図8).半分ずつ交互におく.これはハサがけするときに分けやすいためである.ムギなどはハサがけをしないのでこのようにはしない.
 買ったイネは1束ずつ束ねるが,その束ね方を図9に示した.慣れるまで熟練が必要である.1束は12株くらいであるので,10アール当たり2000束くらいである.1時間に200束となる.1分間に2束程度の速度である.慣れるとこの2〜3倍の速さで束ねることができる.
脱穀・籾摺り
 脱穀は夜の仕事であった.ハサ下ろしが乾燥した夕方であるためであった.ある程度脱穀して籾がたまると,籾摺りが始まる.一般の籾摺りの速さは1時間30俵(60kg)であった.籾摺りでの俵詰めの場合は玄米を俵に詰める人,俵に玄米をつめる人,俵に桟俵を取り付ける人,俵に横縄をかける人が必要であった.1時間に30俵という速さのため,横縄は5本でなく3本が限界であった(10,11).
 俵はその後カマスになったが,これらは法律で決められていた.縄の掛け方も法律で決められていて,自分勝手な縄掛けはなかった.その点,テレビドラマを見ていると,まともな縄かけは全くない出鱈目である.
 以上馬耕時代の稲作についてアウトラインを述べた.昭和35年頃から耕運機あるいはトラクタが入ってきて,昭和40年頃から農村には雨亞がいなくなった.作業は楽になったが原油をたち切られると稲作もできなくなる危険も伴う時代となった.


77. 北海道の農業とエドウィン・ダン
同じ民族でありながら, 北海道における農作業の方法は本州のそれと大きく異なる.本州の農作業が人力と牛とを中心としていたのに対して, 北海道では馬を中心にしていたということであろう. これは北海道開拓の歴史と密接な関係があり, 特に開拓使によって招かれたエドウィン・ダンの影響が極めて大きい. 北海道農業の馬耕時代はこのエドウィン・ダンの来道した1876年に始まり, トラクタを中心とした機械化農業が定着した1970年ころにはほぼ終了した. この期間は約100年間であった. 馬耕時代から機械化農業への変化は単に動力源が馬からトラクタに変わっただけではない. 農家の中で使われていたあらゆる作業法, 道具は一変し, 生活そのものが変わってしまった.
 それまでの作業法のなかには長い歴史に培われた合理的作業法も少なくなかった. 馬耕時代の作業法を知る人も急激に少なくなりつつあり, 今日を逃すと文献的にはともかく, 体験的にこの種の作業法を後世に残すのは困難になるのではないかと思われる.
 この文章を書いた1994年にはエドウィン・ダンの顕彰会会長であり, また北海道酪農の黎明期のその中心を歩んでこられた佐藤貢先生もご健在で, その当時の話を聞くまたとない機会を得たことは幸いであった.
 ここでは,初めに北海道農業の生い立ちについて簡単に触れ,その後は作業法の歴史というよりも実際の作業法がどのようにして行われたか、筆者の体験を中心に述べる.従って地方によっては多少異なったものも存在するが.それらについては省略する.もう一つ述べたいことは作業する上での科学的な合理化である.近年,トヨタ方式といわれるように自動車組み立てにおいて効率的かつ経済的な方式が生み出され,この方式が他の赤字経営だった企業の再建にも生かされ出した.同じことが農業にも言えるのではないだろうか.残念ながら,実際の農業経験者が人間工学的な学問の分野に進んだ者がいないため,農業における作業の合理化について書いた文献や話を聴く機会はない.そこで以前牧場で働いているとき,寝不足の身体でいかに効率の良い作業が出来るか四六時中考えていた時期があった.この体験はその後の私が様々な作業をする上で大きな力となった.そこで得た作業のメカニズムと応用についても触れてみたい.
北海道農業のあけぼの
①明治とともに始まった北海道の開拓
 明治2年(1869年)に、明治政府は北海道に開拓使を置き、本格的に開発に取りかかった。この開拓使の次官には、明治維新の各地の戦争で功績のあった黒田清隆が任命され.わずか31歳の若さであった.翌年,彼は北海道開拓に対する並々ならぬ決意を胸にして,この開拓の計画と実行を託せる人材を求めてアメリカに渡った.
 アメリカはちょうど南北戦争の終了後で,時の大統領はグラントであった.黒田はこのグラント大統領に指導者の推薦を頼み.ホーレス・ケプロンが紹介された.ケプロンは当時現職のアメリカ合衆国農務局長であって,すでに66歳であった。自分の息子ほども年の差のある若き黒田清隆の熱意あふれる説得に応じ,アメリカの仕事をすべて他の人に引き継ぎ,開拓顧問として日本に来ることになったのである.当時の開拓使が北海道の開発に当たっていかに欧米の近代科学に期待したか,表からも想像されよう.
ケプロンは日本に着任するとすぐアメリカと日本を結びつけるための実験農場を3カ所東京につくらせた.これは開拓使付属農業官園といわれた.この官園では,りんご,ぶどうなどの洋種の果樹,一般的な普通作物と亜麻(繊維を取るための作物で,化学繊維ができるまではテントや消防署で使うホースの材料などに使われた重要作物であった).甜菜(砂糖大根)などの工芸作物,家畜の飼育とその飼料となる牧草などの試作が行われた.
 ケプロンは彼の部下であるアンチセルとワーフィールドを北海道の実地調査に当たらせ,その結果と自分の足で確かめて首都を札幌に置くことを勧めた.また,北海道は鉱物資源,魚類,木材に恵まれているだけでなく,農業に欠かせない土壌条件も豊かであることを開拓使に報告した.これによって、北海道の開拓は単なる「北の守り」でなく,「北の宝庫開発」にその重点が置かれることに変わった.
牛,緬羊とともにやって来た男,エドウィン・ダン
 エドウィン・ダンは1848年アメリカの大草原の入り口,オハイオ州スプリングフィールドで生まれた.彼の父はここの良質の草地で約6万㌶の大牧場を経営していた.ダンは法律を学ぶためマイアミ大学に進んだが,18歳の時父の仕事を助けるため学業を捨て,以後6年間牧畜全般にわたって最高の技術を身につけていった.1871年、23歳の時,従兄弟と共同で牧場の経営を始めた.独立後2年間は仕事も順調にいっていたが,そのころから南北戦争後の恐慌を受け始めた.ちょうどそのころ、ホーレス・ケプロンの意見によって必要な種苗・家畜・農具の注文がアメリカに出されていた.このホーレス・ケプロンの2男であったアルバート・C・ケプロンはこの注文である家畜の買い付けを担当していた.この時,アルバート・ケプロンにはもうひとつの使命があった.家畜の飼育と利用技術を日本に伝える優秀な技術者を見つけ出すことであった.ケプロンはこの若く実地経験が豊富なダンに目を付け,そして日本行きを勧めた.
 家畜の方は牛42頭とめん羊100頭が用意された.これをダンともう一人の助手と2人だけで,水も飼料の準備もない貨車に乗せて,シカゴからサンフランシスコまでの不毛の荒野を19日間かけて運んだ.この旅はダンの言葉を借りると「知っていたら1年分の報酬でも引き受けなかった」といわれるほど困難な旅であったという.日本に上陸したダンは最初家畜飼養の第三官園を担当し,北海道に渡った士族と開拓使役人の子弟たち約30人の生徒を相手に農具の使い方,作物の栽培法,家畜の飼い方の講義と実地指導まで,2年間彼らに教え込んだ.その後北海道に渡り,R・ガルトネルからようやく取り戻した七重官園の一部に入り,北海道農業の基礎づくりのための本格的な技術指導に当たった.1875年の1年間は函館の七重で準備を整え,ここでダンは日本人女性と結婚した.翌年の1876年5月には札幌に移り,札幌に牧羊場と牧牛場(真駒内)を,日高の新冠に牧馬場を建設した.
当時,北海道の牧場経営を困難なものにしていたのは交通の便の悪さだけではなかった.折角作った飼料作物は大発生したトノサマバッタに食い荒らされた(1880~1884年).一方、野犬や狼による家畜の被害も大きかった.一時,放牧中の子馬90頭全部が食い殺される事件が発生した.ダンはこの狼退治を決意,多量の猛毒のストリキニーネを東京とサンフランシスコから取り寄せ,これを馬肉にすりこみ狼の絶滅を図った.狼が姿を消したのはこの時以来だといわれる.
 ダンが北海道に残したのは単に欧米の近代農業技術を伝えただけではなかった.その後の北海道農業の原動力となった馬の本格的な改良事業が彼によって試みられた.従来から北海道にいた道産馬(ドサンコ)は丈夫で粗食に耐えたが,欧米の近代的な大型農機具を引くにはあまりにも体格が貧弱であった.特に荒地を開墾するために使われていた大型プラウには,二頭引き三頭引きが用いられたことからもわかるように強力な力が必要であった.
 このようにして,ダンは家畜の生産のみでなく,作業への使い方から畜産物の生産,利用法としてのバター,チーズ,練乳,ハム・ソーセージなどの畜産物の加工技術の指導まで自ら行い,近代北海道農業の技術を定着させた.そしてその後の日本の畜産の先駆者となった多くの技術者を養成した.1882年,北海道開拓使は廃止され,ダンもまた6年間住み慣れた北海道を後にして東京に赴きやがて帰国するが,2年後駐日アメリカ公使館,二等書記官として再び日本を訪れ,やがて駐日公使にまでなった.その後もいくつかの事業に手を出すが,晩年は東京に引き籠もり,84年の生涯をここで終えた.ダンの責任感の強い,そして日本に対する愛情あふれる献身がなかったら,今日の北海道の農業はなかったであろう.
 佐藤 貢氏によるとダンがアメリカから輸送してきた牛はデポン(Devon)とダーハムショートホーン(Durhan Short Horn)種であったという. また、ダンは最初, この家畜の輸送のみ担当する目的であったのだが, 横浜に上陸してから指導者としてケプロンから残るように説得されたと聞いている. また, ダンが建設した牧羊場は札幌の西としかわからず, 今の札幌医大から円山までの間ではなかったかといわれている。

78. 馬と装備
馬の管理
 77で北海道の農作業はエドウィン・ダンの指導によることを示めした.また北海道に農耕用のプラウの導入はプロシャ(ドイツ)の貿易商であるR.・ガルトネルよって持ち込まれたこということを15のエッセイで述べた.この時,ガルトネルはプラウだけでなくリンゴやブドウなどの苗木も持ちこんだという.
 昭和に入ってからの馬の種類はすでに図1でも示したように,純粋のドサンコではなくなり,ペルシュロン種とか,ブリトン種などの重種(大型種),
アングロノルマン,トロッターなどの雑種が多かった.今,馬といえば競馬用のサラブレットとかアラブを指している場合が多いが,この種の馬は馬耕用とか,荷役用には全く無縁であった.特に北海道の農業や林業,または近距離用の荷物の運搬など,ほとんどが大型馬の力によって支えられてきた.
 人馬一体という言葉があるけれども,これは何も乗馬の時のみの専売特許ではない.機械作業と異なって,馬による作業にはその中に人と馬の感情が絶えず交差してくる.馬は人の感情に対して敏感な動物で,猛々しい馬の場合は子供や婦人にはおよそ使いこなせない.男性の大人でも時には馬に「なめられる」(馬鹿にされる)ことがあ,馬に見くびられると全くこちらのいうことをきかない.しかし,馬を使うのは何も力だけではない.愛情も重要な要素であり、これには日常の管理が大切である.

馬房…
馬房は馬にとって休養の場であり,また生活の場である.広さは4畳半から6畳間くらいであ.床は粘土に苦汁を混ぜて固めたタタキが多く,尿などは流れ出るように幾分傾斜がついている.前の方は板かまたは大きな木をくり抜いてつくったまぐさ桶がある.まぐさ桶の横には馬の出入りができる厩(ま)栓(せん)棒(ぼう)が1本か2本で閉じる.図1には代表的な馬房の図を示した.
まぐさ桶は大きな木をくり抜いて作ったものは底が丸く角がないので、古い食い残しができないために良い.馬房の裏側には厩肥を出す裏口兼用の窓が付けられている.床には乾いた寝ワラを絶えず入れておく必要がある.もし,これを怠って寝ワラを湿ったままにしておくと,馬にとって大切な蹄(ひづめ)が腐る場合があり,春先の大切な時期に使えなくなることがある.従って寝ワラは毎日入れてやる必要がある.
 「まぐさ切り」は,多数の馬を飼育している場合は動力カッタといって,歯が回転しながら飼料を細断していく機械を利用するが,多くの農家では図1にあるような手動の「押し切り」で細断する.馬は胃の構造が牛と違って食べたものを反すうしないから,まぐさは短く切ってやる必要があり,特にえん麦と混ぜて与える場合はえん麦の粒の大きさに近い長さに切らないとよく混ざらない.よく混合しないとワラのほうは鼻先で跳ね飛ばし,えん麦だけしか食べないようになる.
「押し切り」の使用は非常に危険で,年配の農業者,もしくは終戦前後に援農のため農村に入った学生たちの中には人差し指をなくしている人をよく見かける.この人たちは大抵この押し切りによって失っている場合が多い.従ってこれを使う場合は決して指とワラとを一緒に出すような握り方をしないことである.すなわち,人差し指をあえに出さず,握った親指と輪になるように握る必要がある.「押し切り」は寝ワラを切るのにも使われるから、使用後は直ちに後片付けをする必要がある.作業で疲れたウマは馬房に駆けてくるから,馬が近くに来ているのに「押し切り」をそのままにして離れてはならない.
 もうひとつ馬房の手入れのなかで注意しなければならないのは、寝ワラの収納とか、広げるときに使用するフォークの先を決して馬の方に向けてはならない。これは牛の場合でも同様である.家畜はいつ不測の動きをするかわからないので,道具の使用はいつどのような動きをしても安全な使い方をする必要がある.フォークの背の方を家畜の方に向けて作業をすると,その反対を向けるよりもずっと安全になってくる.
 一般に昔の畜舎は薄暗いうえに,この管理は夕方の仕事であったので,戦後の電気が普及するまでは安全燈などの薄明かりのなかで,手探りに近い状態で作業をしなければならなかった.そのため整理整頓は人にとっても.馬にとっても重要な条件であった.農作業後の疲れた後のこの作業は時には手抜きをしたい気持ちにもなるが,それは許されないことであった.
馬蹄の手入れ…
定期的には春先と秋の雪の近づく季節の年二回蹄鉄(ていてつ)の取り換えをしなければならない.春先に付ける蹄鉄は一般に知られているあの馬蹄型の厚手の鉄の延べ板で,舟釘のような薄く角ぼった釘を打ち込めるように穴があいている.雪の季節には,冬蹄鉄に替えるが,これには四カ所に突起が出ていて,滑り止めの役目を果たすようにできている.
 この定期的な交換は単に真冬に適した蹄鉄に交換するだけではなく,長く伸びてくる馬蹄の爪の削りもその目的である.これで馬の姿勢に無理がないように削られる.そのほか,爪の弱い馬などはその中間にも蹄鉄を落とすこともあって,そのような場合は新たに打ち直す必要がある.
 以前は身近なところに蹄鉄屋があって,その交換に不自由することもなかったが,今ではめったにこの蹄鉄屋が見られなくなった.
ブラシかけ
…ブラシかけも馬の管理のなかの重要な仕事の一つである.この作業で馬との親密さを増すだけでなく,血行をよくし仕事の疲れをいやすのに役立つ.糞などがついている場合は図2に示した金ブラシであらかじめこする。馬の爪に泥や糞の詰まっているときは金ブラシについている柄を抜き取り,これで掃除してやる.その後は図2のような根ブラシや毛ブラシを使って、毛並みに沿って磨く.根ブラシは馬の水洗いにも使えるが,毛ブラシを水洗いに使うことはない.


給飼
…ウマの餌は,夏は主に青草で,水田地帯では畦草を与える場合が多かった.冬季間は乾草,稲ワラ,それに穀物としてえん麦が主なものであった.春先の激しい仕事に使うときはにんじんなどを併せて与えた.青草が夏でも途切れる農家や,毎日の草刈りの面倒な家では夏でも乾草や稲ワラで飼育している場合があった.青草を一度食べさせると,乾草や稲ワラを食べないからである.えん麦はそのままでは消化が悪いので.押し麦といって圧片したものを与えた.
 水は給飼の前に与える.1回に2~10Lくらいの量を飲む.激しい仕事のときは発汗のため,水も多量に飲む.このようなときは塩を与えることも忘れてはならない.
 以上が農耕馬の管理法の概略である.